第17話 環状線都市-1

 御茶ノ水駅の前にまでたどり着いた頃には、茜色の太陽は完全にビルに覆い隠され、頭の上の狭い空は濃い紺色に変わっていた。

夕焼けに染まるお豆腐のような白く四角い駅舎を前に、千里さんはわたしに訊く。


「彼女……名前なんて言ったっけ」


「……香織ですけど」


 さっきから香織の名前を連呼しているのに、覚えていないとは。わたしはむっとしたが、千里さんはわたしが思ったのとは違う反応だった。


「……ごめん、言い方が悪かった。苗字の方」


 確かに香織のことはずっと名前で呼んでいたから、千里さんは苗字を知らないのだ。


「松谷です」


 こんな時にまで細かいとこに拘るのもなんだけど、そんなに親しくない相手を下の名前で呼ぶのに躊躇するのはわたしにもわかる。


「……松谷さんの乗る路線と降りる駅を教えて」


「総武線です。香織の家、錦糸町が最寄りなんで」


「じゃあまずいぞ」

 千里さんの眉間に皺が寄る。

「市獣が憑いたまま乗ってたとすれば、多分秋葉原駅を――境界線山手線を越えた後だ。もう彼女の『心』は向こうにある」

 千里さんはジャケットのポケットから手早く――慣れ以上に焦りが混じった早さで改札鋏と例の『市内四拾銭』の切符を一枚取り出す。


「助けられる……んですよね」


「環状線の電車に乗る前の段階なら。乗って暫くしてしまったらこの前の君みたいに意識を取り戻しても、自分が誰かわからなくなって、街に飲み込まれて、心を消化させられる」


 千里さんは残酷なくらい香織の置かれた状況を包まず口にする。


 千里さんとわたし、ぱちん、と同時に鋏で切符の長方形の辺の一つを切り落とす。

 瞬間、自分の周りの世界がぱきぱきと音を立ててひび割れ、割れて欠けた部分から世界が破れて、その裏に広がっている違う世界が露わになってゆく。

 信号が変わり、人々が歩き出す。同時にわたし達の周囲の世界がぱきん、と割れる。


 ごぅっ、と耳元で風が通り抜けるような音がした思うと、そこにあったのは灰色がかった夕焼け空が浮かぶ、不思議な街だった。


「ここがリングバーン……」


「ここは肥大化途上の環状線の外側だ。ここに松谷さんはいない」


「……凄いぐちゃぐちゃの街ですね」


 初めて見るリングバーンの内部は、映画のセットと普通の街を無秩序に混ぜたような場所、と言う印象を覚えた。

 いつの時代のだかはわからないが、煉瓦に木造、コンクリートにガラス張りと様々な時代の建物が道に沿ってぐちゃぐちゃに並び、街の看板も手書きの毛筆や時代がかった書体、現代のお洒落なフォント印刷が入り乱れてる。

 そしてその全てが意味の伝わらない文字の羅列で占められている。

 ふわっ、とレモンのような香りが混じった空気がわたしの鼻孔をくすぐる。


「色んな時代の人間の思念を雑然と再現している街だから、こうなるんだ」


 隣に立つ千里さんを見上げると、いつの間にか蓬色のミリタリージャケットが赤地のマントに変わっていて、手には銀色の長剣が握られていた。

 あの地下鉄で見た、彼女の『輪上の乙女』としての姿だ。


「いつの間に変身したんですか」


「百瀬さんが周りを見てる間」

 千里さんは早口で手短に答えてくれた。

「あと今の変身っての、茉莉伽さんの前では言わない方が良いよ。専門用語で訂正される」


 千里さんはくるりと踵を返すと「着いてきて」と、わたし達の後ろで視界を遮るように聳える、煉瓦造りのアーチを重ねた城壁のような構造物へ向かって一目散に駆けてゆく。

 わたしも千里さんの後を追って走り出した。


 四階建ての校舎程も高さのある壁が鉄道の高架橋だとわかったのは、壁の上に電車の架線とプラットホームの屋根が見え、アーチの一角に『表』のJRのそれそっくりの駅の看板と、その下に大きく口を開けた、駅の出入り口を目にしたからだ。


 駅の中はあのホームのある天井まで届いてるのだろう、巨大な吹き抜けが広がっていた。

 その開放的な空間を包む空気は、けれど嫌な重さと粘りと、きつすぎるレモンの香りを持って、色んな方向から押し潰すように取り囲んでくる。

 我慢しながら中程まで早足で進んだが、そこで耐え切れずに肺の内部で行き場を失った空気を嘔吐えづくように吐き出すわたし。

 細い指の手が不意に背中をさする。


「この駅も含めて、環状線から内側が本当にリングバーンの体内だ」

 背中越しに千里さんの声が降ってくる。

「車掌鋏を握って自分が誰か、何をしたいかを強く考えながら歩いて。そうしないと生身じゃ身体も心もすぐやられる」


 千里さんの言葉の通りに、わたしはポケットの中の丸い鋏を右手で握りしめた。


 古くさい駅の内装に不似合いなICカード自動改札の上でぷきゅぷきゅ言ってるタヌキみたいなウロの脇を通って、高架橋のホームに向かう長い階段を登ってゆく。

 わたしのローファーと、千里さんのトゥシューズみたいな黒いエナメル靴の足音は、がらんどうの階段と広間に響き渡る。


 何段目かの踊り場で、かつん、と、急に違う足音が混じった。


「百瀬さん!」

 そう言われるや否や、千里さんはわたしの背中を突然押しだした。


「うわわ」とわたしは間抜けな声を上げながら、体勢の崩れた身体をとにかく立て直そうと足を前に踏み出す。

 がん! とローファーが階段の踊り場を思いっきり踏みつける音が広間に轟き、わたしは頭から階段に突っ込むことを間一髪回避できた。

 何をするんだと抗議しようと振り返った瞬間、わたしは階段の最下段、改札の前でわたし達を見上げながら立つ男の影を目にする。


 派手な高級スーツに似合わない無骨な火焔放射器を背負った男は、ペンキをぶちまけたドーベルマンのような黒い獣を何頭も従えながら、遠目でもわかるくらいに口元をいっぱいに歪めるような笑みを浮かべている。


「やあ、また会ったねお嬢さん! アリスも会えて嬉しいよ!」


 男は声高に白々しい挨拶をかけてくる。

 既にわたしに背中を向けている千里さんを目にして、抗議の気持ちは一瞬で引っ込んだ。

 かわりに、こんな時にお前になんて会いたくなかった。という火焔放射器男への罵声が心の中に響き渡る。


「こいつはぼくが相手する! ぼくを宛てにしないで、松谷さんは君自身で助けろ!」


 千里さんのハスキーな絶叫は、空間いっぱい凛と響く。

 その声はとても頼もしくて、そして、香織を助けろと言われたことが誇らしかった。


「勇敢だねぇアリス! その友達思いなところ、きっと数字が取れるよ!」


「うるさい! 黙れ!」


 後ろで二人の言い合う声と金属の打ち付ける音、そして不気味な低音を背に、わたしは長い階段を飛ぶように駆け上って、てっぺんのホームに立つ。

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