第15話 友情の行方-1

「あの、すいません。わたし、帰ります」


「それはあの女の子が気になるからですか?」


 茉莉伽さんが尋ねる。わたしは迷わず頷いた。


「香織、多分わたしがここにいること知って来たと思うんです」


 わたしは玄関に駆け出し、重い木の扉を開ける。瞬間、さっきまでお盆越しに見えていた香織の表情が目に飛び込んできた。


「香織……」


「灯理。嘘つくならもっと考えて行動したら? あたしがシューズ見に行くつったら、御茶の水の店に寄るの知ってるじゃん。駅前で千里とあんたが歩いてるの、すぐわかったよ」


 香織の言葉には鈍い自分にもわかるくらいの強烈な怒気と失望が混じって、震えていた。


「あたしは千里の隣にいるのが灯理じゃないって思いたかったけど、こうやって家の中から出てこられたらもう答え合わせみたいなもんじゃん」


「違うんだって、違うの……」


「何が違うのさ。あたしにはお母さんが許さないからって嘘ついて、自分はちゃっかり千里と出かけてたことは事実じゃん」

 香織は嘲るような態度を取る。

「ひょっとしてあたしって嘘ついても大丈夫なチョロい奴とかって考えてたたワケ? ねえ、教えてよ」


「違うんだってば! お母さんが勝手に門限決めたのは本当だし、ここに来たのは千里さんにちょっと無理に来るように電話もらって……」


 わたしの弁解は「うっさい!」という香織の絶叫で中断される。


「困ったら今度は千里のせいにすんの? 無理やりつっても歩いてる時全然無理やりには見えなかったけど。いい加減にしなよ。そういう『自分は良い子にしてるけどいつも周りに巻き込まれてるんです』って全部回りのせいみたいにアピールするの! だからレーナとかクロっちにもイラつかれるんだよ!」


 香織は目で見えるほど体を震わせ、目を鋭く細め、低く唸るような声で糾弾する。

 わたしは香織の言葉にそれ以上違うと返せなかった。

 空気が喉のところで止まって、声に出来なかった。それどころか腕も足も金縛りにあったみたいに動かせずにいた。

 香織の糾弾は、それほど強烈にわたしの弱い部分を確実にえぐったのだ。


「百瀬さんの言ったことは本当だよ」


 動けなくなっているわたしの後ろからハスキーなアルトが降ってくる。

 その声の主――千里さんはわたしの身体を押しのけて玄関の外に出ると、ミリタリージャケットのポケットに手を突っ込んだ格好で香織と対峙する。

 かたや眉間に大きな皺を刻みこんで千里さんを見上げる香織、かたやいつもの涼しい顔で香織のかおを覗き込む千里さん。


「百瀬さん自身もお母さんの言うことを聞いて出ようとしなかった。ぼくが無理やり来るように言って、百瀬さんの身の回りの対処と説明のために連れてきた。それでいいだろ」


「あんたもなんなんだよ。この前急に灯理に話しかけてお昼一緒したと思ったらいきなりこんなとこ連れてきて」


「それは悪いと思ってるけど、早めに対処しておいた方が良いと判断した」


「対処対処って何の対処だよ」


「悪いけど部外者には話せない」


「部外者って何さ。不思議の国の行き方でも話し合ってたわけ?」


「……まあ、そんなところ」


 次の瞬間、ぱちぃん、と掌が何かを打った音が黄昏色の路地に響き渡る。

 わたしからは千里さんの身体が影になって見えなかったが、香織の平手が千里さんの頬を思いっきりはたいていたということは、わかった。


「バカにするのも大概にしろよ! 本当にワケわかんないんだよあんた! わけわかんない思わせぶりとかメルヘンな嘘とかで誤魔化すくらいなら堂々とハブれよ!」


 香織の平手にも咆哮にも、千里さんはたじろがずにポケットに手を入れて立っている。

 わたしはやはり動くことも、声を上げることも出来なかった。

 確かに今リングバーンのことを香織に説明しても、絶対におとぎ話としてしか取り合ってくれないだろう。

 それに下手に教えたところで香織も危険な目に遭うかも知れない。と言うのは理解している。

 それでも千里さんの言い方は香織の言う通りとても思わせぶりで、部外者はすっこめと突き放すような言い方だ。

 どちらの気持ちも言い分もわかるから、わたしはどちらに対しても口を挟めない。

 こういうのが香織に言われた卑怯さなのだろう。


「大体自分のこと『ぼく』って呼ぶなんて小学生かよ! バカみたいに女の子女の子した名前のクセに――」


 香織の言葉は遮られる。千里さんがネクタイを鷲掴みにし、胸ぐらを引き寄せたからだ。

 香織が千里さんをはたいた瞬間と違って、今回はお互いの顔まではっきり見えた。

 沈みかけの、血の色の夕陽に陰影を強調されながら照らされた千里さんのかおは、目を大きく見開き歯を噛み締め、怒りと威圧感を顕わにしている。

 わたしが見たことのないほど感情を剥き出しにした千里さんの顔に、わたしは当然だが、香織も絶句していた。

 何十秒か経って、千里さんの表情が元のクールなものに戻ると同時に千里さんは香織の胸ぐらを掴んでいた手を離す。

 香織は少しふらついて、千里さんと、わたしとを見比べるように感情的で鋭く研がれた視線を向けた。


「ぼくも言わせてもらうけど」

 千里さんが口を開く。

 その口調はさっき突然点いた怒りの炎が完全に消えていないのを示唆しさするが如く、半ば吐き捨てるようだった。

「百瀬さんを都合のいい友達と思ってたのは君も同じだろ」


 香織はきつく千里さんを睨むと、胸元とタイを整えて、かたわらの鞄を拾い上げた。


「香織……」


 やっとわたしは言葉を口にできた。だけど、次ぐ言葉はまだ出せずにいた。


「じゃあね灯理。そこのメルヘンな頭と仲良くしてれば」


 香織は決別の言葉のような別れの言葉をわたしに告げると、路地を駅の方へと歩き出していく。わたしはそれを目で追うしかなかった。


遠ざかってゆく香織の背中を、小さな黒い影が追う。

 それは夕闇の作り出したものとは思えないほど濃く、香織にぴったりくっついて離れず、小さくなる香織の背中をとてもなめらかに跡をつけてゆく。

 そういう予感ばかり当たってしまうわたしの勘は、やはりその影に不吉を感じていた。


でも、わたしの足は動いてくれない。

 香織を引き留めようと声を出そうとしても、声すら出せないでいるのだ。

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