第14話 東京最古の魔女-2

「さあ、どうぞ」


 暫くして奥のキッチンからお盆を持って出てきた茉莉伽さんはティーカップを三人分テーブルに並べて、装飾過多なティーポットでお茶を注ぐ。

 注がれたのはなぜか濃い緑色の、とても匂いの良いお煎茶だった。


「……ところでアリスちゃん、彼女の刻印はどれだけ濃かったのですか?」


「かなり濃かったです。恐らく市獣が憑いているかもしれません」


「そう……なら私は彼女の望むことを行えば良いと言うことですわね」


 茉莉伽さんは少し勿体ぶって、にやりと不敵に笑いながら口を開く。陰影のはっきりした西日の下、彼女の表情は実年齢通りの老女のように不気味にも神秘的にも見えた。


「灯理さん。最終確認ですが貴女は自分を変えたいと、あの街の呪縛に打ち勝ちたいと思っている……それで良いのですか」


 わたしは躊躇いがちに頷いた。


「できれば……変わりたいです。でもできるかどうか……」


「環境的要因による困難や結果は良いのです。心持ちと意識が強くあるかどうかが大事」


 茉莉伽さんは躊躇いがちなわたしの言葉にぴしゃりと返す。


「そもそもあの街は実際の結果で無く、人の心と意志の力に委ねられるわけですから」


 茉莉伽さんはすう、と息を吸ったかと思うと「灯里さん」とわたしの名前を合図にして、語り始める。


魔女ヘクセンの扱う魔法ヘックスは人の意思と感情と想像の力を、手続きを踏んで具現化する物です。都市もまた人の意志と感情と創造の力で『心』を発生させる、魔法に極めて近い概念的生物の一面も持ち合わせていて、リングバーンは概念的生物としての成り立ちそのものが魔法を起源としていますから。人の心と意志の力が全てを決めるわけです」


「街が……生き物ですか?」


 茉莉伽さんの話は理解に少し時間がかかったが、多分だが魔法の世界では街は生き物。と言うよくある表現がそのまま当て嵌まるようらしい。

 その証拠に茉莉伽さんも「ええ」と答えてくれた。


 そこで茉莉伽さんはすう、ともう一度息を吸ってから溜めを作る。


「ここから先は、もっとわかりやすい昔話をしましょうか」


 今度は絵本でも読み聞かせるかのように、柔らかく平板に茉莉伽さんは語りだした。


「昔むかし、と言っても三百年程前頃からですが。近代化と共に魔法の行使で陰ながら人々を助けるという存在意義を失った魔女ヘクセンは、意志と心の力である魔法を役立てようと、急激に肥大化していった都市という生き物や、そこに生きる人々に寄り添う道を選びました。

伯林ベルリン倫敦ロンドン巴里パリ紐育ニューヨーク上海シャンハイと言った大都市と呼ばれる都市には高名な魔女や沢山の魔女が住み、人々の心や都市のほつれを直していたのです。この東京にも高名な魔女が一人いました」


 くるん、と茉莉伽さんはティースプーンを、魔法の杖を振るように回す。


伯林ベルリンから渡ってきた強大な力を持つその黒髪の魔女は、お相撲に地下鉄、銭湯にデパート、古いものも新しいものも、東洋も西洋も構わず飲み込んで育ってゆくアンバランスなこの街をとても気に入っていました。そしてこの街で愛する人と出会い、子供を産みました。だからこそ、この街にかけた愛も人一倍強かったのです……それこそが悲劇の始まりだったのですが」


 茉莉伽さんは最後の言葉だけトーンを一つ下げたと思うと、お茶を口に含み、飲み込む。額に浮かんでいた玉の汗が電灯の光を反射して、きらりと輝く。


「切っ掛けは些細なことでした。彼女がある日山手線の電車に乗ろうと駅のホームに立った途端、彼女の目の前で男性同士が口論を始めたのです。

 内容なんてどうでも良いものでしたが、問題は口論をしている二人です。

どちらも傷ついてひびの入った心に負の感情が染み入り、感情が心の傷をどす黒く固めてしまった人達です。その頃東京の『心』の自浄作用は負の感情を処理しきれず、負の感情は東京の全体に溢れていました。

 彼らの口論は止まらず、取り巻く人々にすら彼らの負の感情が伝播しはじめました。

 彼女はそれを止めようとしました。黒髪の魔女は魔女の魔法の中でも難しい、人の心を直接癒やす魔法ヘックスを使うだけの力と技がありました。彼女は何度もその癒やしの魔法で、人を助けてきました。今回もいつもと同じ様に二人を助けようとしたのです」


 そこで不気味に言葉が切られる。

 わたしでも――いや、悪い予感ばかりが当たるかわたしだからこそ、どんな展開になるのかは予想が付いた。

 喉が渇く。わたしはカップのお煎茶をず、と音を立てて勢いよく飲み込む。

 隣に座る千里さんも顔を伏せて、ゆっくりと煎茶に口を付けていた。


 茉莉伽さんが再び言葉を紡いだ時、声のトーンは柔らかかったが、さっきより低かった。


「ですが無駄でした。彼女の癒やしの魔法が届くよりも前に、激高した一人が彼女を線路に落としました。そして運悪くやってきた山手線の電車の車輪が、彼女の命を奪いました」


 あっさりとそう言い切ると、彼女はそのトーンを維持したまま続ける。


「彼女の死によって、癒やしの魔法は暴走し、負の感情と絡みあいます。強い癒やしの魔法は悪意や絶望を取り込んで、人を救うことをその絶対意志とする環状線と都市を模った魔物が生まれました。

 傷を負った人の心を自らの手や手下の獣を使い、食らって砕くことで救い、食らった人の心を糧に、自らを形作る『環状線リングバーン』の版図を広げることを目的とする、癒やしの意志と悪意を併せ持つ巨大な魔物。それがあの街です」


 茉莉伽さんはやっとお煎茶に口をつける。

 彼女の仕草は小さい女の子の外観とは程遠い、他人以上に長く生きた老女が、痛みを伴う昔話を語り終えた時のそれのようだった。


「なんだか、やるせない話ですね」


 人を助けようとした癒やしの魔法が、悪意の一押しで、人を食べて救う悪意の街を産んだというのだから。理不尽そのものだ。


「自分の力を過信しすぎたんだよ」


 今まで沈黙を貫いていた千里さんがぽつりと呟く。彼女の声色は硬く、冷たい。

「自分の力ならできる。自分にしかできない。そう思っている人間ほど自分の力について全然わかってないんだ」


「千里さん、言い過ぎだよ。その人だって眼の前で困ってる人がいて、助けられると思ったから助けただけなのに」


 わたしは思わず口を挟む。自分の力で人を助けようとすることを「力の過信」なんて言葉で片付けるのは、わたしには無理だ。


「灯里ちゃん。残念ですが、アリスちゃんの言う通りですわ」


 茉莉伽さんの言葉が、わたしの言葉を遮った。


「私も尊敬する女性ひとの悪口は許せないですが、この話に関しては彼女の過信と自己責任の結果としか言えません。癒やしの魔法を会得したことで、彼女自身が眼につく全ての人を癒やしの魔法で救わなければいけない、という不必要な責務を抱いた結果ですから」


 茉莉伽さんの語った内容は千里さんのそれと殆ど同じはずだった。


 だけど茉莉伽さんのそれは魔女さんを責めると言うよりも、魔女さん自身が癒やしの魔法が使えたこと自体が、魔女さんを追い詰めてしまったのだ。とでも言いたげだった。

 茉莉伽さんはティーカップをお皿の上に置く。ちん、とカップが涼やかな音を立てる。


「さあ、昔話はこのへんで。そろそろ本題に入りましょう」


 にこりと茉莉伽さんは、小学生の女の子の顔で、わたしに向かってお婆さんにしかできないような貫禄のある微笑みを浮かべる。

 目の前の茉莉伽さんの、綺麗な鳶色とびいろの瞳の色が、彼女と、今までの話にわたしが抱いた現実感の無さを真っ向から否定するようにさえ思えていた。


「あの街の市獣ベスティエは文字通りあの街を主とする猟犬です。強い負の感情を持った『心』に主人が付けた刻印の匂いを追い、固有の意思と実体を得て、その獲物や親しい人間を引きずり込むため、そそのかし、傷つけ、主たる街に食わせる。時に自ら器ごと人の『心』を食らいます……灯里ちゃんは刻印の濃さから、確実に市獣に目をつけられているはずなのです」


「市獣は『表』に出てきて干渉することもできる」

 千里さんが、茉莉伽さんが話し終えるや否や食い気味に口を挟む。

「百瀬さんは一度あいつに目をつけられてるから、もしかしたらあいつか、別の市獣が百瀬さんを狙っているかもって茉莉伽さんに刻印の件も含めて連絡したら、非常事態だって言われて。だからここに連れてきたんだ」


「えっとつまり……その市獣と戦うためにわたしが魔法少女――」

 と言いかけて、慌てて訂正する。

「じゃなくじゃなく、なんとかって言うのになった方が良いって話、ですよね」


 案の定茉莉伽さんは「魔法少女」と突如飛び出した単語にきょとんとした顔で訊き返している。そのせいで頬がかっと熱くなり、身体がぞわぞわする。

 千里さんが何度も魔法少女と連呼していたせいで、もうわたしの中でも、聞き覚えのなかった言葉の存在が魔法少女で固定されてしまっているようだ。


「輪上の乙女シャフレーン、ですわ」

 茉莉伽さんがわたしの間違いを訂正する。

「感情の爆発力と想像力の大きな『心』を持つ思春期の少女が、あの街に限って限定的な魔法ヘックスを使用できる、と言う点では『魔法少女』は確かに意味合い的にはぴったりですけど」


 そう言う茉莉伽さんの顔は見た目は和やかに笑っているように見えたが、言葉の節や細めた目には、和やかとは程遠いものが混じっているのは明らかだ。


「……ごめんなさい」


 申し訳なに耐えられずにわたしは茉莉伽さんに謝る。

 わたしのおかげで、きちんとした意味のある立派な言葉と伝統が『魔法少女』というポップな言葉で塗りつぶされる罪悪感と羞恥もそろそろ限界だ。


「まあ、まあ。とても使いやすい言葉を教えてくれたので、私の魔女らしいところを見せてあげますわ。口頭で魔女だ魔法だと言っても説得力は無いでしょうし……。刻印消しはその後に済ませてしまいましょう」


 茉莉伽さんは立ち上がって、CMの替え歌でしか聞いたことのない歌を口ずさみ、ソファの背後の飾り棚を開け、シンプルな銀色のお盆を持ってきてテーブルに置く。鈍い色を秘めたステンレスと違う鮮やかな白銀色に、それが本物の銀のお盆だとわかった。


「少し古典的ではありますが、このお盆であなたの大事な人を覗いてみましょうか」


 そう言うと茉莉花さんは小さく何かを呟いてから、突然わたしの手を取った。


「人差し指を出して、お盆の上に置いてみて?」


 わたしは言われるがまま、とん、と人差し指をお盆の上に置く。

 瞬間、お盆の表面が水面になったように波打って、波紋を広げる。波紋の中心から銀色が消えて、セピアがかった像が映りはじめた。


「うわぁ……」


 お盆の波紋が収まると、そこにはお母さんの姿があった。家のキッチンに立って、眉をひそめた不安げな表情をしてコンロにかかった圧力鍋を眺めている。

 キッチン台に並んだグラタン皿と厚めのベーコンから、今日の晩ご飯はじゃがいもグラタンなのだろう。


「これ、お母さんかしら?」


「はい」


 眉をハの字に曲げて心配そうな顔で、何度も自分の左側を気にするお母さん。


「もう一度、弾いてみてくれるかしら」


 もう何度か弾くと、西日の差し込む道場で汗びっしょりで竹刀を振る拓、どこかのビルの廊下のベンチで眼鏡のレンズを拭きながら天を仰ぐお父さんが次々に映る。


 そして再度弾くと、どこか既視感のある路地の中で、むすっとした表情で佇む香織の姿が映った。


「あら。これ、うちの前じゃない」

 茉莉伽さんが言う。

「お友達? アリスちゃん、もう一人呼んだの?」


「百瀬さん以外呼んでないですけど……どうしたんだろう」


 千里さんは不可解な来客にどこか困り顔だった。


 わたしは立ち上がって窓から外を盗み見る。

 香織はお盆の上と同じしかめっ面で玄関のドアの方をじっと見たままだった。

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