第13話 東京最古の魔女-1

 高鳴る心臓の鼓動を抑えるように夕暮れの路地を進み、JRの中野駅にたどり着く。

 空はすっかり夕暮れ色に染まっていて、中央線快速のホームに立つとわたしはスマートフォンのスリープを解き、千里さんに電話をかけ直した。


「千里さん、わたしです。百瀬です」


『うん、百瀬さん。どう? 来る気になった?』


「今中野駅です。次の電車で御茶ノ水駅に行きます」


 電話の向こうから、ふう、と溜息が聞こえる。


『新宿駅で山手線と交わるときに気をつけて。罪悪感や不安をあまり強く抱くとリングバーンに引き込まれるから。耳元で声が聞こえたら強がってでも拒絶して』


 わかりました、と電話を切って、舞い込んできた夕陽色に染まった中央線快速の電車に乗り込んで、人の波に揉まれながら御茶ノ水駅を目指す。


 そして新宿駅を無事超えて、待ち合わせの御茶ノ水駅の出口に辿り着くと、千里さんはあのミリタリージャケットにリュックサック姿で壁により掛かっていた。

 背が高く髪をザクザクに切っている千里さんは、夕方の人波の中でもすぐにわかるくらいには目立つ。


「千里さん」


 わたしは彼女に駆けより、彼女の顔を見上げる。


「ああ、百瀬さん」


 千里さんはわたしの姿を認めると、こくりと頷く。さっきの苛立った口調が嘘のように、硬い表情と感情の籠もらない声でわたしを出迎える。


「じゃあ行こうか」


 そう言うと、千里さんは私の手を握って街の方に向かって歩き出す。


「あの、どこに?」


「リングバーンに詳しい人」

 千里さんは感情の籠もらない声で言う。

「昼に話したぼくを『魔法少女』にした人で、自称『東京最古の魔女』。百瀬さんことをぼくの知る範囲の状況とか話したら、安全に関わるかもしれないからすぐ連れてこいって言われて」


「あの、その『魔法少女』って呼び方出来ればやめて下さい」


 意地悪なのか、それとも別の意図があるのかわからないけど、魔法少女という単語を連呼されると最初に言い出したわたしが恥ずかしくなってくる。


「ドイツ語の専門用語より使いやすいんだよ。『魔法少女』って言葉」


 そう言い切った千里さんはやっぱり意地悪に見えた。


「『魔法少女』になるって決意がなくても、百瀬さんの刻印を消すこと自体はできるって……面倒くさい人だけど、今あの街に関して一番詳しい人だから」


 街をしばらく進んでいくうちに、千里さんが真剣味を帯びた声で、わたしに問いかけてくる。

「ねえ百瀬さん。君が変われないと思ってる理由は、お母さん?」


「なんでわかるんですか、そんなこと」


 わたしの声は明らかに震えていた。


「電話口でだってわかるくらい、君はお母さんに遠慮して家を出るのを躊躇っていた。それに昨日の詰問の時もお母さんの話題を口にしてた」


 あの時の会話、聞かれていたのか。とわたしは少しだけ後悔する。


「多分だけど、お母さんからの抑圧と自分の失敗をまぜこぜにして、凄く慎重で自虐的になってるんじゃないかな」

 すい、と千里さんは茜色の虚空に人差し指を向ける。

「自分は弱くて出来の悪い人間と思い込んで、他人からの抑圧も肯定しようと自分を押し殺してる。君がこの前の昼に言った『正しさ』っていうのの根拠も、そこにあるんだろう」


 わたしはもう反論できずにいた。

 お母さんのことや自分のことをズバズバと容赦なく言われるのは悔しかったが、わたしの言葉では多分千里さんを納得させられそうにない。


「……ぼくは百瀬さんとお母さんを責めるつもりはないし、資格もない」


 そう言った後、すう、と息を吸って千里さんは続ける。息を吸う前より、厳しい口調で。


「ただ、『正しさ』って物にこだわって臆病で自虐的に振る舞い、抑圧を正当化して自分を押し殺そうとする態度が、確実に君が刻印を付けられた理由だ」


 わたしはやっぱり、千里さんには何も言えなかった。



 千里さんに手を引かれるまま住宅街の中に入って歩いていく。

 前後に大きな籠を備えた自転車や、育ちすぎてお化けみたいになったアロエの葉が道路にはみ出てる俗っぽい路地に、魔女がいると言うのは半信半疑だった。


 やがて千里さんが路地の真ん中で立ち止まって、「ここ」と一軒の家を指差す。

 その薄緑塗りの小さな西洋館だけ、わたしでもわかるくらい周囲と空気が違っていた。

 ところどころ剥げたペンキ塗りの壁と、錆の浮いたより濃い緑の鱗屋根。

 凝ったドールハウスを大きくしたような形の西洋館は、古い建物独特の何とも言えない風格を醸しだし、周囲の住宅に挟まれながらも、存在を静かに誇示している。

 わたしが西洋館に呆気に取られている間に、千里さんは既に呼び鈴を鳴らし、「おじゃまします」と無遠慮にドアを開けて入っていく。

 わたしも千里さんに続いて「おじゃましまーす」と控えめに言いながら、家に上がる。


 家の中も派手な壁紙と高そうな洋風の家具が、廊下と階段には額入りの写真や絵が並んでいる。

 それらがわたし達の後ろから差し込む西日に照らされて、ヨーロッパかどこかの幽霊屋敷を思い起こさせるようだった。


「本当に魔女がいそうな家ですね」


「半分演出してるんだよ」


 そう言う千里さんの口調はちょっと困ったようだった。


「茉莉伽さん、失礼します」


 千里さんとわたしは、廊下の右側にあるリビングの扉をくぐる。


「アリスちゃん、待ってましたよ」


 西日の差し込むリビングで、書き物机の椅子越しにわたし達を出迎えた声は『魔女』という言葉から程遠い、随分と高く可愛らしい声色をしていた。

 椅子の脚の間で揺れていたソックスとスリッパを履いた小さな足が床に着き、声の主はわたしたちの方へとやってくる。


「なるほど、この子がアリスちゃんの言っていた女の子ですか。うんうん、ちょっと御仕着せな感じもしますが、お可愛いらしいじゃないですか。素材が良いんのでしょうね」


 声の主――小学校高学年ほどの女の子にしか見えないその人は、そんなことを言いながら品定めでもするように視線を上下させながら、ふわふわの栗色の髪を揺らし、フリル付きのチェックのロングスカートを翻してわたしの周囲をくるくる回る。

 わたしが「あの、えっと」と間抜けな声を上げていたところで女の子はやっと立ち止まると、わたしの顔を覗き込む。


「んー……それにしてもシャッキリしない顔ですね」


 上目遣いの彼女の顔は、とても不思議な顔だった。顔こそ小さい女の子のパーツでありながら、実際のその年齢の子とは絶対に違う雰囲気があったのだ。


「あの、千里さん。この子は……」


 千里さんは眉に皺を寄せながら、女の子の頭をくいと抑える。


「……茉莉伽まりかさん。百瀬さんが困ってるからやめてあげて下さい」


「あらそう。はしゃぎすぎたかしら」


 女の子は何一つ懲りてなさそうに「ふふ」と可愛らしく口元を手で隠したと思うと、たん、たんと軽やかにステップを踏んでロングスカートを翻し、改めてわたしの前に立つ。


 その所作は外観相応の女の子の所作にしては、ちょっとだけ不自然なようにも見えた。


「はじめまして。わたくしはそちらのアリスちゃんの友人兼保護者の一人、橿家かしや茉莉伽まりかと申しますわ。以後お見知り置きを」


「……はい」


 わたしは彼女に圧倒されるがまま、こくりと頷く。


「えっと、千里さん。この人が……」


「ぼくの言った人。リングバーンに詳しい東京最古の魔女」


 茉莉伽ちゃんはにこりと、年不相応な落ち着いた笑みを浮かべた。


「外観に騙されないで。小学生みたいな背格好してるけど、この人九十歳は超えてるから」


「きゅう、じゅ」


 絶句したが、同時に茉莉伽ちゃん――いや、茉莉伽さんが正しいか――の違和感の正体にやっと気づけた。

 振る舞いや声のトーンが見た目に対して落ち着きすぎていて、不釣り合いだったのだ。


「まあま、私に関する野暮な話は置いて……お名前を教えて下さらないかしら?」


「あっと、百瀬灯理です」


 百瀬、灯理。茉莉伽さんはわたしの名前を諳んじると、わたしの脇を通り抜ける。


「今お茶をお持ちしますから、掛けていて下さい」


 茉莉伽さんに言われるまま、わたし達は映画のセットのような立派なソファに腰掛ける。

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