第12話 君が変わること・百瀬灯里-3

 結局あの日から数日が経ったけど、わたしは千里さんの言葉の通りにはなれなかった。


 勝手に心配して勝手に決めた門限を守り、合わないコンタクトを付けて、お母さんの地雷を避けて面倒事が起きないように、わたしは今までと同じ様にしか振る舞えなかった。


「うん……特に注意事項は無いが、夜遅い時間に駅で我が校の制服の女子を見たという報告があったので、特に用事がない場合は全員早い時間に帰るように。以上」


 面倒くさいと言う感情が端々から滲み出ている須藤先生からの忠告で、今日も帰りのホームルームが幕を閉じる。

 彼が教室を出て行って、間髪入れずに香織の逆さまの顔がわたしの前に落ちてきた。


「灯理ー、今日のカラオケ行けるべー?」


 期待たっぷりの香織の顔を前に、わたしはまた、即答できなかった。

 香織の目を見つめながら少し逡巡しゅんじゅんする。

 香織か、お母さんか。

 わたしは香織の提案には手放しに乗りたかった。けど、お母さんに黙ってカラオケに行けば、お母さんが突然電話をかけてきたりして、台無しになるかもしれない。

 お母さんの『正しさ』はわたしの都合や友人関係なんて何にも考えてないのだ。


「ごめん……今日は無理かも。お母さんがちょっとさ」


 わたしは手を前に出して、そう断った。


「ああ、おばさんか……灯理のおばさん手強いもんね」


 お母さんの名前に、あっさりと香織は納得する。

 放課後に香織と少し遅い時間の映画を見に行ったり、予め教えてから買い物をしていた時も、お母さんが凄い勢いで電話をかけてきたことがあった。

 その時の剣幕のおかげで、お母さんの奇妙で苛烈な心配性を香織は知っているのだ。


「ごめん。もし今度の日曜日オーケーだったら、その時ね」


「オッケー。じゃ、また明日ね」


「ごめんね」


「いいって。あたしももし駄目ならシューズ見に行こっかなとか思ってたし。灯理がいなくても十分一人で楽しむよ」


 香織はひらひらと手を振る。多分、何度も一緒に連れてってもらった、御茶の水のあのスポーツショップに一人で行くんだろう。


 香織との放課後のカラオケに後ろ髪を引かれ、申し訳なさを覚えるわたし。丸ノ内線の赤色の電車はそんなわたしを乗せて、荻窪に向けてトンネルの中を走り出す。

 目の前の窓に、トンネルの闇に浮かぶぼんやりした表情の少女の姿が目に入った。

 わたしは窓の中の自分に向かって手を伸ばす。

 窓の反対側のわたしは誰かの『正しさ』に自分を合わせた時にそうなる、表情の欠けた虚ろな顔で、手を伸ばしてきていた。


 自分を変えたいと願っているか。千里さんの言葉はわたしの心を捉えて離れない。

 変えたいと願っても、『正しさ』はきっと変わることを歓迎しないし、その『正しさ』と戦う勇気も、心の強さも、わたしは持てそうにないままだ。

 だからわたしは変わりたいと願うだけのままで終わってしまいそうで、それが恐ろしい。


 車内放送が新宿が迫ることを告げて電車が山手線を超えそうになったとき、慌ててわたしは今日のご飯のことを考え始めた。

 出来れば今日は和食が良いな、と考えながら、電車が山手線を超えるのを待った。


 結局わたしが家に着いた時には、玄関の飾り時計は午後五時を指していた。

 廊下の途中の子供部屋は怖いくらい物音一つ無く、拓が部屋にいるかいないかでこれだけ家の中の雰囲気が違うんだ、と改めて思う。

 スクールバッグを部屋の定位置に置いてから、制服姿でリビングに向かう。


「ただいま、お母さん」


「おかえりなさい。早かったのね」


 誰のせいだ、という悪態が口から出そうになったのを、わたしは寸前で止める。

 お母さんもお母さんで、まだパート先の新宿のデパ地下から戻ってきたばかりの余所行きの格好で、ソファに座ったまま情報番組を流し観ている。


「今日は学校どうだった?」


「いつもと変わりないよ。いつも通り」


 わたしは抗議の意味も込めてちょっとだけ語気を強めた。

 だけどお母さんは「そう」と興味なさげに答える。

 心配だけは人一倍するのに、こう言う時は腹立たしいくらい淡泊な反応しかしない。


 わたしは自分専用のビーズソファにお尻を沈めて、スマートフォンをいじり出す。

 電子書籍の小説を読むくらいしか、やれることが見つからなかった。

 十分くらい無為に小説を読み進めた頃だろう。お母さんが「灯理」と呼びかける。


「あのね、お母さん大谷さんから聞いたんだけど」


「何?」


 きっとろくにことじゃない。悪い予感だけはよく当たるわたしの勘が反応した。


「新宿のカラオケで高校生の女の子が脱法ハーブ? っていうの? あれを買ってたって話があるみたいで……心配だから灯理も気をつけてね。危ないから」


 わたしはスマートフォンをタップする手を止めて、そのまま電子書籍のアプリを閉じる。


 やっぱり。予想は当たった。しかも予想してなかったくらい最悪な話題で。


 お母さんのパート先のお店には大谷さんという変に情報通のおばさんがいて、お母さんの心配性を面白がって、中高生がらみの噂を面白おかしく語っているらしい。

 その大谷さんがよりによって、新宿のカラオケをタネにお母さんを心配させるような話を吹き込んだのだ。

 お母さんの心配からの『正しさ』は、眼鏡や服を除くと、大体夜遊びとか、薬や芸能界とか、そういう物絡みが多い。カラオケで女子高生が脱法ハーブのやりとりなんて、お母さんの心配のビンゴカードに何列もあなを開けるような話だ。

 これはきっと日曜日のカラオケも無くなるのかもしれない。


「灯理? ねえ灯理?」


「……わかった」


 わたしは、変われなかった。『正しい』ものがわたしをぐるぐるに絡めて縛っている。今座っているビーズソファも自分を閉じこめる拘束椅子に錯覚してしまう。

 こうやってわたしはがんじがらめになったまま『正しい』生き方に従うだけの人間として過ごして、そして近いうちに千里さんの言うようにあの街に食べられていくのだろうか。


 わたしはやっと違和感の消えた目から手を離すと、深くビーズソファにお尻を沈める。


 じりりりりん! と突然リビングの静寂を破るベルの音と共に、手元のスマートフォンが揺れる。

 わたしはスマートフォンを取り落としそうになるのをギリギリで受け止めると、揺れるその画面を眺める。画面に映るのは知らない携帯番号からの着信。

 フリックして通話に切り替えた後、白いすべすべしたスマホを頬の近くに持っていく。


「はい、百瀬です」


『ああ、ぼく。千里』


 電話口でそう名乗った千里さんは、何故か少しだけ硬い声をしていたた。


『君のことを詳しい人に話したら、やっぱりちょっとまずいことになってるらしい。すぐ御茶ノ水駅まで来てくれるかな』


「ちょ、ちょっと待ってください! 今その、家から出るのはちょっと……」


 最初こそ勢いが良かったものの、急速にトーンダウンしてゆくわたしの声。

 だけど千里さんはそんなことを気にせず、硬い声で返してくる。


『君の命に関わる。とにかく死にたくなければすぐにでも来て欲しい……山手線を渡るときには気をつけて』


「でも、あの、お母さんが、夕方出るなって」


『自分の命がかかってるってわかってる?』


 昨日の黒木さんの如く――と言うかそれ以上の苛立ちの混じる千里さんの声。

 そんなことを言われても……と、わたしはお母さんの方を眺め、千里さんの苛立たしげな声を聞きながら、ぐるぐると頭の中を止まらない逡巡に頭が痛くなってくる。


「あの」とか「うう」とかしか漏らせないわたしに、電話の向こうの千里さんはもう埒があかないとばかりに、大きな溜息の後に殆ど呆れ混じりの声で言う。


『君が生きたいならもう逃げてでも良いから来て。君が早晩死にたいのならお母さんの意思を尊重してもいいけど。御茶ノ水駅のお茶の水口で待ってるから』


 そしてぶつりと電話が切れる。


「どうしたの? 灯里」


 そして最悪のタイミングでお母さんがキッチンから声を掛けてきた。

 もうここでグズグズしてる余裕なんかない、という状況。

 千里さんの言うように、わたしも腹をくくるしかないようだ。


「友達に急用で呼ばれたの。ちょっと出かけてくるね」


 わたしはあんなに重く自分を拘束していたように思えたビーズソファから立ち上がって、スマートフォンをポケットにしまう。


「……ええと、それって今じゃないと駄目なの? もうすぐ暗くなるし、灯里一人で歩くのは心配だから、明日とかにできないの?」


 お母さんが口ごもりがちにわたしにそう投げかける。


「大丈夫、大丈夫だから。この前よりは早くに帰ってくるよ」


「でも……何があるかわからないから、これから出かけるのはよくないわ」


「すっごい急用だからさ、ちょっと行ってくるね」


 お母さんの「でも」から始まる未練がましい心配を、わたしは思い切り突き放すように強めの口調でばっさりと切って捨てる。

 幸い今握っているスマートフォンの乗車券アプリには千五百円ちょっとのチャージがある。御茶ノ水駅までなら全然足りる金額だ。


「じゃ、お母さん。行ってきます!」


 わたしはうわずった声でそう言うと、廊下を駆け出して玄関でローファーを突っかけ、玄関からエレベーターホールに一目散に駆けていく。

 エレベーターに早足で乗り込むと、人差し指を強張らせて一階のボタン、次いで『閉』ボタンを連打する。

 エレベーターはわざとらしい音を立てながらのろのろと降りはじめ、独特の不思議な浮遊感を感じながら、わたしは興奮した頭を落ち着かせた。


「まずいことって、なんなんだろ、やっぱりリングバーン絡み……?」

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