第二章 環状線都市(リングバーン)
第10話 君が変わること・百瀬灯里-1
「とーもーりーっ」
四限目のリーディングを終えたところで、逆さまの香織の顔が突然視界に現れる。
「お弁当キメちゃおうぜー」
「キメるとか言わない」
香織の額をしまいかけたノートの背でこつんと叩く。
わざとらしく「やられたー」と声を上げる香織から、わたしはちょっとだけ視線を逸らし、教卓の方へ目をやる。
今日何度目かわからないが、教卓の前の席の少女をじっと凝視した。
千里アリスは相変わらず涼し気なポーカーフェイスを浮かべている。
朝学校に来てから、わたしは何度も千里さんの姿を追っていた。
忘れろとは言われたけど、やっぱりいざ本人を見たら気になる。
何度か声をかけようかと迷いもしたが、結局そこまでの勇気は出ず、四限目が終わるまで視線で追うだけだった。
彼女が席を立つ。
手にはお昼が入ってるだろうビニール袋があって、いつも通りに独りでどこかに行って、ご飯を食べるんだ。とわたしは思った。
だけど千里さんは教室のドアの方ではなく、窓の方に歩いて来て……。
「ねえ」
わたしの前に立って、わたしを見下ろしながら声をかけた。
「ちょっと来てくれるかな」
千里さんが何と言ったのか、わたしは理解できなかった。
わたしよりわずかに早く千里さんの言葉を咀嚼できた香織が、「うぇえええ!?」とわたしの隣で
わたしもその絶叫を後ろに聞きながら、やっと彼女の言葉を飲み込むことに成功する。
「は……はい」
わたしは気の抜けた声で返事をする。
「ねえ、昼休みの間この子借りていい?」
香織が顔を上に向けた奇妙な姿勢のまま、
鞄の中からお弁当と水筒を取り出すと、わたしは「来て」と言葉短かに歩き出した千里さんの後を着いていく。
足の長い千里さんはどんどん先に進んでいって、足が短いちんちくりんのわたしでは早足で追いつくのがやっとだ。
「待って、待って下さい」
わたしは弱音を上げながら、千里さんの背中を必死に追いかけた。
千里さんがやっと足を止めた場所は、屋上に通じる狭い階段の踊り場だ。人気もなくうら寂しいそこにたどり着いた頃には、わたしは完全にヘトヘトになっていた。
「あの、なんでこんなところに……」
「話すなら二人っきりの方がいいし、ぼくは出来ればここが良いから。君もあんなにじっと見てたってことは、話したかったんでしょ?」
千里さんは壁に背中を預けると、袋の中からペットボトルのお茶を取り出す。
無糖紅茶と言うチョイスがなんとなく千里さんらしい。
「今日は尋問されてなかったみたいだね」
「昨日はちょっと特別だったんです。色々あって……話がこじれて」
「そうだね。君、普段は
千里さんの口から辛辣な言葉が飛んだ。
「朝から見てても、前の席の子と話す時以外はどの子とも会話に半端に混じって、半端に相槌打って。周囲になんとか合わせていたみたい」
とても手厳しい。自覚してはいが、面と向かって言われるとやっぱり心にくる。
「ところで……あの」
「昨日のことだよね。ぼくもそのことで君を呼んだ」
そして千里さんが言及したことで、やはりあれが自分だけが見た夢でないと理解した。あの不可思議な世界は実在していたのだ。
「一応忘れろって言ったけど……まあ無理だよね」
千里さんはぐび、とペットボトルに口をつけてお茶を飲む。
お茶を流し込む度に千里さんの白い喉が跳ねるのが妙に色っぽくて、わたしは同性のはずの彼女の喉に、なぜか釘付けになって、嘆息していた。
「なに?」
「いや、美味しそうに飲んでるなー……と思って」
我ながら下手な嘘だ。
ペットボトルのキャップを閉めると一呼吸おいて、千里さんはいつになく真剣そうな口調で「ねえ、君」と切り出す。
「髪を持ち上げて、首の後ろを見せて」
「え?」
突然の要求に、わたしは引っくり返った声を上げてしまう。
「確かめたいことがあるから、見せてくれる」
「……変なことじゃないですよね」
「君はぼくをどんな人間だと思っているのか知らないけど、少し触れて確かめるだけだよ」
千里さんの少し苛立ちの混じりはじめた真剣な口調に、わたしは変なことはないと信じて、千里さんに背を向け、後ろ髪を持ち上げ、首の後ろを見せる。
首筋をそっと千里さんの指がなぞってゆく。
敏感な首筋に少し硬い指の腹が滑る感覚に変な声を上げそうになってしまったが、それを堪えていると、「やっぱりか」と深刻そうな声が聞こえた。
「相当濃く刻印が押されてる。切符を切っただけじゃ駄目だったみたい」
「刻印……?」
「平たく言うと、あの街にマーキングされている。君は相当あの街に引っ張られてる状態にあるってことだ」
わたしの後頭部から目を離すと、千里さんが振り返ってわたしの方を向く。
「ちょっと聞きたい。君は、今の君から変わりたいと思ってる?」
「……え?」
急に切り出された問いかけに、わたしは再び変な声を上げてしまった。
「あの街は君みたいに心に穴が開いてる人に印を付けて、誘って、心を食うんだ。そして君はあの街に完全に目を付けられている。だからあの街の誘いを振り払えるくらいに、君に変われるって覚悟や心の強さがないと、ぼくは君をどうすることも出来ない」
千里さんは硬い声でわたしに圧を掛けてくる。
それは千里さんのふわふわした説明でもわたしの命に関わっているとわかるほどに、事態が深刻だからなのだろう。
だけど。千里さんの最初の問いかけに、わたしはこう答えるしかない。
「なんて言えばいいか、わかりません」
当然のように千里さんは呆れ声で返してくる。
「……はいでもいいえでもなく、そういう答え?」
はい、とわたしは頷く。
巾着袋を握った手が熱さを帯びて、汗が染み出してくる。
「イエスもノーも軽々しく言えないから……なんて言えばいいかわからないんです」
小さな引きつった声が、私の口から漏れてくる。
「……わたしは絶対にノーなんて言いたくありませんし、誰かの言う通りにしか動けない自分は嫌です」
心の奥に抑え込んだ雫が
「でも今のわたしがイエスって言ったところで、未来のわたしが変われるかわからないから、軽々しく言いたくなくて。だから、なんて言えば良いのかわかりません」
千里さんはわたしを見て渋い表情をしている。
命に関わるというのに煮え切らない答えを口にしたわたしを軽蔑しているんだろう。
やがて千里さんが口を開く。
「君さ、石橋を叩いて渡る方とか、考えすぎる方って言われない?」
千里さんの言葉に首肯する。
いちいち色んなことを考えすぎとは拓にも香織にもよく言われるし、真面目すぎる上に慎重すぎて動くのが遅い。ともよく言われる。
わたしに言わせると、単に上手く行かなかった時が怖いだけなのだけれど。
「でも、変わりたいって気持ちはわかったよ。それなら話せる」
千里さんはおもむろに長い足を組み替えて、本題に入ろうとした。
「あの……ちょっと待ってて下さい」
わたしは千里さんに恐る恐るストップをかけ、急いで水筒のキャップを開ける。
さっき千里さんの問いかけに答えを絞り出しただけで、わたしの喉は緊張でカラカラになっていた。
緊張で渇いた喉へ、さっき千里さんがやったように水筒のお茶を流し込む。お母さんの淹れた冷たい麦茶が喉にじわりと染み込んでいく。
なぜか千里さんは、じっとわたしがお茶を飲むとこを眺めてきていた。
「あの、どうしたんですか?」
わたしは水筒から口を離して、問いかける。
「いや。喉が鳴ってるとこ、かわいいなって」
千里さんの言葉に、わたしのほっぺたが火がついたみたいにかっと熱くなる。心臓もドキドキと強く鼓動を刻み出してきた。
素っ気ない口調だったが、同世代の綺麗な女の子の口から『かわいい』なんて言われて、免疫のないわたしはバカみたいにドキドキしているのだ。
命が関わっているという話をしているときに、何をやっているんだろう。わたしは。
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