第9話 誘われた次の朝の風景
千里さんは「忘れた方が良い」なんて言っていたけど、あんな強烈な体験を一晩寝たくらいで綺麗さっぱり忘れられるわけもない。
結局翌日ベッドから這い出して、朝ご飯を食べる段になっても、あの不思議な場所と千里さんのことが頭の半分くらいを占領していた。
「ねーちゃん、ジャム垂れてる」
拓の言葉にはっと我に返った時には、わたしのスカートにはトーストから垂れたイチゴジャムがべっとりと付いていた。
慌てて指でジャムを取ったはいいが、染みは残ったままだ。
「あちゃあ……」
「灯理、ふきん使いなさい」
食卓の向かいに座ったお父さんから手渡された濡らしたふきんを受け取ると、スカートにこびりついたジャムの染みを拭う。
わたしはつまらないドジに憂鬱になりながら、もくもくとトーストを齧った。
「姉ちゃん、なんか深く考えはじめると回り全然見えなくなるから、すぐドジするんだよ」
拓がからかうような一オクターブ高い口ぶりで揶揄る。
わたしはむっとしたものの反論もできずに、未練がましく「拓」と釘を刺すばかりだ。
わたしのわずかばかりの抗議に悪びれる様子もなくケチャップがけのスクランブルエッグ(醤油党支持のわたしからしたらありえない組み合わせだ)をかきこんでいる。
「灯理、今日は帰ってくるの早いの?」
お母さんが訊いてくる。
「特に用事はないから……早いかも」
そう。とトーンダウンしたお母さんの声が返ってくる。
拓が伏せ気味に視線を送る。わたしも顎を少し動かして頷く。
お母さんのこういう「そう」はあまり良くない合図だ。
「昨日のこともあったから。心配だし、暫く六時までには帰ってきてね」
ほら、やっぱりだ。
お母さんはわたしの帰りが極端に遅いことがあった後には、すぐに早めの門限を制定したがる。
心配してもらってるのはわかるけど、いくらなんでも過剰反応すぎて厭になる。
ただどんなに厭になっても、今この場でお母さんに反対をすることはわたしには無理だ。
わたしが言葉を紡げずにいると、隣の拓が口を開く。
「六時って、今時中学生だってそんな時間で帰る奴いないよ。母さん心配しすぎだって」
拓はいつだって物怖じせずに、自分の意見を叩きつける。
それが正しかろうと、間違っていようと。
たまにそれも厭になるが、今回は救われた。
「……でも灯理は女の子だから。遅い時間に街を歩いてて、変な人から声かけられたり何かあっても心配でしょ」
お母さんが未練がましく訴えてくる。
「大丈夫だって。姉ちゃんしっかりしてるし、変なのに騙される程アホじゃねえよ」
「でも! 何が起こるかわからないでしょ!」
お母さんが声を荒らげる。
拓も思わず口を引っ込める。
お父さんもぴくん、と眉を動かす。
拓の言葉に便乗してなんとか切り抜けようとしたわたしも、喉からでかけた「そうだって」と言う言葉を引っ込めた。
こうなってしまってはどんな理屈もお母さんには通じなくなり、お母さんの意見がこの時点で一番『正しい』答えになる。
そしてわたしは「そうだって」の代わりに
「……うん。できるだけ早く帰ってくるね」
とだけ答えた。
どうやら今日もわたしは、香織に謝る口実を見つけなきゃいけないようだ。
暫くして沈黙を守っていたお父さんが「
わたしも続いて立ち上がって鞄を、拓はリュックとマイ竹刀の袋を持ち、家を出た。
三人ともマンションから大きな通りまでは同じ道だ。
「姉ちゃん」
マンションの一番端を通り過ぎたあたりで拓が口を開く。
「俺がなんとかするからさ。本当に母さんのこと気にしないで、香織さんと遊んで来いよ」
「悪いよ、そんなの」
わたしの言葉に、拓が不機嫌そうに唇を尖らせた。
「じゃあ帰ってきても、俺のいるとこで辛気臭い面して溜め息つくなよ」
そう言われるとぐうの音も出ない。
広い通りに出ると、ここでわたしだけが別れる。中学校に行く拓と、中央線に乗るお父さんは北、丸の内線に乗るわたしは南に行くから。
「じゃあね、二人とも」
わたしはくるりと二人に背を向けて、歩き出そうとする。
「灯理」
名前を呼んだのは、お父さんだった。
「お母さんの言ったことは気にしなくていいぞ」
お父さんの声はあくまで穏やかだった。
「お母さん、少し神経質になってるだけだよ。お父さんも色々説得するから、気にするな」
わたしは振り返るらず、足を前に動かすことに集中させた。信号を一つ、二つ通り過ぎて、やっとわたしは口を開く。
「お父さん、やっぱなにもわかってないんだな」
お父さんはとにかく鈍感な人だ。
お母さんのあれはただの神経質とかで片付くものじゃない。きっともっと根深くて面倒くさい事情がそうさせてるんだ。
でも、お父さんはそれにすら気づいていないんだろう。
そして気づかないから、お母さんみたいな面倒くさい人に付き合えるのかもしれない。
もしわたしにお父さんの鈍感さか、拓みたいに自分の意見を貫く強さがあれば、お母さんの『正しさ』を受け流せて、もうちょっとだけ気楽に賢く生きれるんだろう。
駅にたどり着くと、わたしはスマートフォンを改札機に押し当ててホームに降りる。今日は瞼の裏に違和感を抱かなければ良いな。と電車を待った。
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