第6話 誘いの列車-1
丸の内線で二年も通学してるが、この電車は古い方の銀色の電車でも、新しい方の赤い電車でもない。
それどころか見るからに野暮ったくて、たぶん銀色よりももっと昔の電車に思えた。
よく見てみると周囲の席に座ってる人も、吊革を持ってる人も、乗客という乗客がどこかおかしい。
肌の色も髪の色も普通の人と同じはずなのに、わたしの眼にはなぜか美術室の石膏像みたいに映った。
周りが見えないくらい怒りで湯だっていた頭は、辺りを見回せば見回すほどに急速冷却されてゆく。
さっきまで何を考えてたかさえ忘れるくらい。
「変だよ、変だよこれ」
わたしは他の人の耳に入らない声で小さく呟く。
もちろん誰も答えない。
呟くわたしを黙らせるみたいに、地下鉄特有のごうごうとうるさい音が耳と車内を支配し続ける。
「……この電車、どこに行くの?」
手がかりを掴もうときょろきょろと辺りを見回してやっと見つけた路線案内の紙は、見たこともないデタラメな並びの漢字に埋め尽くされていた。
その間もトンネルは途切れることは無く、窓には流れる明かりが映る。
丸の内線の駅間なんてたかが知れていて、新宿を出て次の駅までなんて正味二分で着くはずなのに。
電車はスピードを落とす気配もなく、わたしの不安を煽っているみたいに緩やかに速度を上げている。
こくりと唾を飲んで、わたしは眼鏡屋さんの時同様意を決し、近くで吊革を持ったまま微動だにしない、暗色のスーツ姿のおじさんに思い切って声をかけた。
「あの、すいません!」
ひっくり返った声がわたしの喉から出てくる。
きっと普段の電車だったら、車内のどこかから失笑が漏れるに違いないような声。
なのにおじさんも、他の乗客も、何の反応も見せない。
「この電車、
問いかけに反応したのか、おじさんの首が鈍く動いて、視線がわたしを捉える。
おじさんの眼は、生きている人間の眼ではないとわたしには思えた。
生きてる普通の人は光彩とか、目のレンズの部分とか、そういう部分の色がきちんと分かれてる。
だけどおじさんのそれは、全部を絵の具で乱暴に塗りつぶしたような平坦な色だった。
「荻窪なんか行かないよ。この電車は」
おじさんの、喉の中でスピーカーを通しているような硬質で電気的な声がそう言い切る。
「君はわかってないようだ。この電車はリングバーンだ。終着駅なんて無い」
「リング……バーン……」
呆けたように、おじさんの口にした行き先を
そんな駅、わたしは知らない。
そもそもそれが駅名なのかも、わたしはわからない。
「ちょっと待って下さい。どういうことなんですか。降りることって出来ないんですか」
「出来ないだろうね」
おじさんは断定口調で言い放った。
「
駄目だ。余計に混乱してきた。
わたしは一体今どこにいて、何を見てるんだ。理解が全然追いつかないし、おじさんの言うことも無茶苦茶すぎてわからない。
「戻るにはどうすればいいんですか?」
「俺は知らない」
おじさんは興味がないような、それじゃなきゃ諦めているような口ぶりだった。
まるでわたしがコンタクトレンズと眼鏡の話をする時みたいに。
突然、おじさんの視線がわたしから逸れた。
周りの乗客達――和服姿のおじいさん、帽子を被ったおじさん、ブレザーの女の子――みんなが一斉にわたしと反対の方向を向く。
乗客全員の視線は電車の連結部分の扉に注がれていた。
「……来たな」
「うん、来たね」
口々に、電気的で重みのない声で厄介そうにぼやき始める。
「君」
おじさんがわたしの方を振り返ることなく言う。
「あそこのドアから離れろ。行けるなら隣の車両に行くべきだ」
「なんでですか?」
「あいつが来てる」
「あいつ?」
「リングバーンの犬だ。君みたいなまともな子があいつに捕まると面倒なことになる」
おじさんが言うと同時に、がらら、と音を立てて連結部分のドアが開く。
「酷い言い草じゃあないか、なあ、君!」
そこから高らかな声とともに現れたのは、おかしな姿をした男の人だった。
年は三十代の前半ぐらい、『涼しげ』と言う言葉がよく似合う俳優さんみたいな顔立ち。
そしてイタリア辺りのブランド物らしい明るい灰地にストライプの気障なスーツと、色柄のシャツ。ネクタイも洋物だろう、艶のあるペールピンクの格子柄だ。
靴も先が尖った眩しいくらいに黒い革靴で、これも洋物の高級品なのがすぐわかった。
まるでひけらかすような、見るからに気障ったらしい様相と態度は、たとえ大手でも堅気の企業の勤め人じゃない。
羽振りと態度の派手な業界に身を置いてる人間のそれだ。
そして男はそんな格好と不似合いな酸素ボンベが二つ三つくっついたものを背負っていて、そこから延びたホースが繋がった銃みたいな筒を両手で構えていた。
「まともなままでいたいなら、行くべきだ」
おじさんの言葉にはっと我に返って、スーツの男の人と反対の方向に走り出す。
「随分とまあ、ご挨拶だねぇ」
おかしな格好の男がそう口にすると共に、ごぅっ。と恐ろしい音がわたしの後ろで響く。それと同時にわたしの背中側から尋常ではない熱が襲ってくる。
何が起こったのか考えている余裕なんて無かった。ごぅ、と言う音が怖くて、わたしはとにかく床を蹴り、無我夢中で電車の突き当たりまで走った。
視界が前後左右に揺れて、鞄の紐が肩の上で暴れて波打ってる。
突き当たりの壁に衝突するようにたどり着くと、次の車両に逃げようとわたしは次の車両に続くドアを開けようと、銀色のハンドルを捻った。
だけどハンドルはびくともしない。鍵がかかってる手応えでなく、元からそういう風に固定されているような感触だ。
「なんで! なんでなの!」
わたしは狂ったようにハンドルに力を込める。なのにハンドルは固まったままだ。
「開いてってば!」
わたし自身の絶叫と車輪が線路を渡る音に混じって、かつ、かつ、と靴の音が近づく。
恐る恐る、視線を列車の反対側に戻す。
男の人は、にやにや笑いながら歩いてきていた。手にはあの銃を持って。
銃の先からはちろちろと青とオレンジのコントラストの炎がちらついていた。
瞬間、わたしは男の人が抱えているものの既視感がなんなのかをわかってしまった。
いつかブラウン管に見た光景。
ヘルメットをかぶった兵士がそれを背負って、色調の狂った炎を吹き出して、誰かの家を焼き払う陰惨な映像が頭の中でフラッシュバックする。
(火焔放射器だ)
聞いたこともない場所に向かうおかしな地下鉄の車内、火焔放射器を持った男の人に追いかけられて、わたしはろくな説明もないまま生命の危機に晒されてる。
もう本気でわけがわからない。
「開いて! 開いて!」
「無駄だよ、リングバーンは気まぐれだからね」
スーツ男が楽しげに言う。
恐怖から余計に強くハンドルに力を込める。手汗と体温でハンドルは熱を帯びているのに、開く気配は無い。
「しかし今日は素敵な日だね。あの子を向かえに来たと思ったら、全然関係ない子まで捕まえられるだなんて! 全く今日はリングバーン様々だ!」
高笑いと共に音を立てて炎が吹き上がる。炎は天井の吊り広告を一瞬で焼き尽くし、黒い燃え滓が火の粉と共に床に落ちる。
「嫌! もう嫌!」
もう自分でも何を言ってるのかすら理解ができなかった。
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