第5話 ある放課後の風景-2
丸ノ内線で新宿まで戻り、わたしは駅直結デパートのコンタクトレンズ屋にいた。
落ち着いた様子の店員さんはわたしにレンズの入った袋を渡してくれる。
「はい、百瀬さん。一ヶ月利用できるものとなります」
ありがとうございます。とお姉さんに一礼し、お母さんのくれたお金を払う。
レンズの入った袋は、本当は大して重くもない。だけど手に取った瞬間、その袋は憂鬱なぐらいに重く感じる。
一ヶ月に一度のわたしの嫌いな感覚だ。
袋を鞄にしまい、お店を出るとわたしは一路地下鉄の駅を目指した。
「ご飯までに帰らないとお母さんに凄い心配されるし、それで次の日から門限とか言い出されるからまた面倒くさいし」
歩を進め始めると、瞼の裏にあるものの違和感が強くなってきた。
「……この違和感の何がわたしのためになるんだろ」
お母さんは涙まで流していたけど、わたしには何がわたしのためなのか、その理由が何一つわからない。でもあの様子じゃ訊いたらわたしの方が悪者だ。
デパートの中を色々と考えながら歩いていたら、わたしの目と、足が同時に止まる。
普段は風景の一つとして認識していただろうに、急に目についてしまった、店頭にずらっと眼鏡の並んだお店――眼鏡屋だ。
よりによって、なんでこんな時に目の前に現れるんだ。
早く帰らなければと、わたしは止まった足と目を動かそうとする。
足は動いてくれた。
ただし、駅じゃなくお店の方に。
「見るだけ。見るだけだから」
わたしは、誰に向けてなのかもわからない言い訳をしていた。
店頭のテーブルに並んだ十や二十じゃ効かないくらいたくさんの眼鏡。陳列されたラインに沿って指を空中に這わせて、気に入ったものを探し始める。
あんまりシャープなのはちょっとキツめに見えるからパス。
でもあまり繊細そうなのも多分わたしがかけるとさらに弱っちく見えるからパス。
お父さんがかけてるようなフレームもレンズも大きいのはもちろんパス。
そんな風にたくさんの眼鏡をえり好みながら、ふらふら店内を歩いていく。
「眼鏡、お探しですか?」
突然店員のお姉さんに話しかけられて、わたしはちょっとだけ身構えてしまったけど、すぐに構えを解いて「あ、はい」と答えた。
「今コンタクトなんですけど、あんまり目に合わなくて……」
「コンタクトって人によって合う合わないがありますからね」
銀縁の知的な印象の眼鏡のお姉さんは柔らかい笑みを浮かべてきた。
大人の人らしい落ち着いた笑い顔が、銀縁の眼鏡によく似合う。
「色々見てて、どんなのが似合うかなって探してるんですけど、わからなくって」
えーと……と少し考えこんだお姉さん。
そしてすぐに「ふわっとでいいんで、どんな感じの眼鏡にしたいのか教えてくれますか?」と訊かれた。
そんなことを急に言われても困ったわけだが、お姉さんはくすっと小さく笑うと、店の奥の陳列棚から一つの眼鏡を持って帰ってくる。
細いけど力強い、明るい銀色のフレームが眩しい横長の丸眼鏡だった。
「これから長く使うとすれば落ち着いているものが良いですし、私としましてはこれをお勧めします」
「は、はい」
わたしは緊張しながら眼鏡を受け取る。固まりがちな、ぎこちない手付きで弦を左右に広げて、先端を耳の上にかける。
「鏡でご覧になって下さい。似合っていますよ」
お姉さんに促されるように鏡を覗き込むと、わたしではない女の子がいた。
戸惑った表情を浮かべて立ってるだけのくせに、眼鏡をかけただけで目元がなんとなくしまって見える。
いつも電車の窓に浮かぶぼんやりした童顔の少女より、少しだけ格好いいその少女の表情は、困惑から驚嘆に変わって、わたしと同時にお姉さんの方を向いた。
「これ、凄いです」
「それは良かったです」
お姉さんがあの落ち着いた柔らかい笑みで返す。
わたしは鏡の前でちょっとばかり斜に構えたポーズを取ったり、眉に皺を寄せたり、唇を真一文字に結んだりとあれこれと色んな表情を試してみる。
鏡の中の女の子はその度にわたしの思いもしないような表情を浮かべていた。
「気に入っていただけましたか」
「はい」
今すぐにでもこの眼鏡が欲しい気分だった。
一通り格好杖つけてみた後、わたしは眼鏡を外して、改めて値札を見る。
フレーム、税込み九千八百円。レンズ別売り。
「えっと、これって全部込みだと何円くらいになるんですか?」
「九千八百円のフレームですから、レンズにもよりますが、一万二千円くらいですね」
お姉さんの提示した金額は、わたしにとってかなり無慈悲な金額だった。
銀行口座に眠る全財産の五分の一ほどの金額を口にされて、わたしは顔を伏せる。
「お年玉崩せば足りるかなあ……バイトなんてお母さん許さないだろうしな」
お母さん。
そのワードを心の中で思い浮かべた途端にずしんと気分が重くなる。
お母さんに眼鏡を買ったことを知られたら、どんな行動を取るだろう。
宮原さんや黒木さんだって、なんて言ってくるだろう。
わざわざ自分のアドバイスを無視して眼鏡に変えた生意気な奴を、悪く思わないわけがない。
今日の黒木さんの詰問みたいに、なんで眼鏡をかけたのかって、問いつめられるかもしれない。
「……すいません、失礼します」
わたしは眼鏡をお姉さんに手渡すと、頭を下げて早足で店を出て、前も、景色も見ずに突進してくみたいに、地下に向かって歩を進める。
「もう嫌、もう嫌、もう嫌……」
なんで自分は強くなれないんだ。なんで自分のやりたいことは『正しくない』んだ。
乗車券アプリの入ったスマートフォンを改札に乱暴に叩きつけ、丸ノ内線ホームへの階段を下る。
わたしはそこでまた、ぶり返した眼の違和感を紛らわせようと視線をあちこちに移す。
「あ……」
それが駄目だった。
視線の先にあったのは、あの『自分らしく、カッコ良く』の広告だった。
しかも朝見たのと微妙に違うバージョン。よりによって赤いプラスチック縁の眼鏡をかけた女優さんが、夜の丸の内のビル街で鞄を手に微笑んでいるのだ。
「もう、何なの。みんなして」
色んな人から自分の考えてることが間違ってると教えられ、『正しい』ことに従うしかないって言うのに、自分らしくもカッコ良くも出来るはずがない。
「自分らしくなんてどうすればいいの」
自分の身体が荻窪行きのホームに並ぶ人の列に反射的に加わっているのが他人事のように思えた程、頭の中は完全にあの広告と、わたしと、わたしに示される『正しさ』への怒りの堂々巡りでぐちゃぐちゃだ。
思考の外で電車がホームに舞い込んできた音が鳴る。
次いで、耳障りなブレーキ音の後に、炭酸飲料のボトルを長回しで開けたみたいな音。
「カッコ良くなんて」
わたしは前もろくに見ないで、力なく呟きながら電車に乗り込む。
「出来っこない」
ドアがわたしの後方で閉まり、丸ノ内線の電車はくぐもった音を上げて走り出す。
怒りと煩悶で頭の中をぐちゃぐちゃにしたままのわたしを乗せて。
「……あれ?」
電車が走り出してから、わたしは奇矯な声を上げていた。
「こんな電車、走ってたっけ?」
今乗っている電車は、わたしがいつも乗っている、わたしの知っている丸ノ内線の電車でなかった。
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