第4話 ある放課後の風景-1
校門で香織と別れてから、丸の内線の荻窪行きに揺られ、新中野の駅で銀色の電車を降りた時は既に陽は西へと傾いていた。
駅から十分程の煉瓦色のタイルを張った古ぼけたマンションがわたしの家だ。
オートロックを解除し、狭苦しいエレベーターに乗って七階の自宅へたどり着く。
「ただいまぁ」
玄関に脱ぎ捨てられた靴を確認すると、脇に寄せられたわたしのそれと同じサイズのくたくたなスニーカーが一足、玄関のタイルの上に滅茶苦茶に転がっている。
こんな脱ぎ方をするのは我が家には一人しかいない。
わたしはローファーを脱ぐと、飛び散ったと表現した方がいいスニーカーを整える。
荷物を置きに自分の部屋に入ると、先程のスニーカーの主がいた。
中学校の制服のシャツにスウェット姿のちんちくりんの少年は、案の定リュックとブレザーの上下を二段ベッドの脇に放り投げて、ゲームのコントローラーを握りしめながらテレビにかじりついている。
テレビの中では暗いヨーロッパ風の街で黒髪にエプロンドレスのちっちゃな女の子が大きな剣を手に、蒸気を吹き出す厳ついメカ相手に切ったはったを繰り返していた。
「
「姉ちゃん、今話かけんなって」
二つ下のわたしの弟は、わたしの方を見ることなく、コントローラーをせわしなく操作し、女の子はメカの振り下ろした巨大ハンマーを間一髪でかわす。
「死ぬ! 死ぬって! うわ、うわ! だからノーモーションで撃つなよ!」
「お母さんは?」
「居間にいる! やめろ! そんなとこで機雷撒くな! うわあああ!」
とても賑やかに喚きながらコントローラーを握る拓を後目に、わたしは鞄を自分の机の上に置いて、居間に向かう。
お母さんはいつもそうであるように、テレビを点けながら台所に立っていた。
テレビは夕方の情報番組の益体のない情報が流れていて、それをお母さんはなんとなく冷めた表情で聞き流し、時折眺めながら手を動かしている。
「ただいま、お母さん」
「おかえりなさい、灯理」
わたしの声に、お母さんは何か興味を取り戻したような表情でわたしの方を向く。
「早かったのね。灯理も蒸しパン食べる? お茶も煎れてあるの」
「今日コンタクト買いに行く予約してるから。すぐ出る」
ああ、はいはい。とお母さんは台所を立ち、チェストからお財布を取り出す。
お母さんの指が結構な額の紙幣を手にしているのが、エプロンをつけた背中越しに見えた。
コンタクトはわたしの眼に合わないし、一ヶ月ごとに買いに行かなきゃならない癖に、こういう生々しいものだけは鮮明に見せつけてくる。
『灯理がしたくてしてるんじゃないんでしょ?』
香織のそんな言葉が突然脳裏に蘇ってきた。
もう一回、言ってみるか。こくりと唾を飲み、わたしはなるべく自然に切り出した。
「ねえお母さん。コンタクト代って結構かかってるよね」
「大丈夫よ。お母さんやりくり上手だし、お父さんも給料良いんだから」
お母さんの表情がぎこちなく曇るのはわかった。
だけどわたしはさらにもう一歩、と言うよりも核心に踏み込む。
「でも毎月お金かかるし、わたしもコンタクトにこだわってないからさ。眼鏡にした方がいいと思う……」
「……駄目! 眼鏡は駄目!」
駄目だった。
できるだけお母さんに迷惑をかけないよう装ったが、眼鏡の一言を出した瞬間、声を荒らげてお母さんはわたしの方に迫ってくる。
「眼鏡は駄目! お金なんて気にしなくて良いの!」
「でも毎月だったら通しで凄いお金になるじゃん」
「灯理のためなら構わないから! 灯理のためにも眼鏡は駄目なの!」
お母さんの目尻には涙まで浮かんでいた。
どうやらわたしの主張は、泣かれるほど『正しくない』らしい。
「……うん、わかった。ごめんね」
地雷を踏み抜き、お母さんに泣かれかけたわたしは、たまたま失言した聞き分けのいい子のふりをして、お金を受け取って部屋に戻る。
ドアを開けた瞬間、爆発音と「うわあああ!」と一際大きな拓の叫び声がした。
次いでどこか無念そうな旋律の静かな音楽。どうやらあの女の子は蒸気メカにやられてしまったようだ。
わたしは構わずお札を財布に入れて、
そこで気づいた違和感を拓にぶつけた。
「今日稽古行かなくていいの?」
今日は曜日的に、拓は学校からそのまま剣道の道場に稽古に行って、わたしより後に帰ってくるはずなのだ。
ゲームと同じだけ剣道に真剣な拓がサボっているとは考えにくい。
そんなわたしの素人推理に拓は「今日は休み。先代師範の法事だからみんな休み」と答えを教えてくれた。
「姉ちゃんこそどこ行くんだよ?」
「コンタクト買いに。今日予約したから」
「制服で行くわけ?」
「そっちの方が洗濯楽でしょ。拓が制服で道場行くのとおんなじ」
半分本当で半分嘘だ。
本当はわたしが自分で服を選びたくないだけなのだ。
必ず眼鏡の話題よりはましだが、自分で選んで服を着るとお母さんのお眼鏡に適わないらしく、選び直されたことが何度もある。
服に関してはことわたしと同じ目に遭うことの多い拓は、わたしの嘘の真意を知ってか知らずか「……だよなあ」と頷く。
テレビでは再び剣を持ったエプロンドレスの女の子と、巨大メカの戦いが始まっている。
「なあ、姉ちゃん」
わたしが部屋から一歩足を玄関の方に踏み出した時、いきなり拓が聞いてくる。
「姉ちゃんコンタクト本当は苦手だろ。コンタクトやめて眼鏡に替えればいいじゃん」
「いや、いいよ」
と、わたしは答える。
「みんな、今のままが良いって言ってるし」
「その『みんな』って誰と誰よ」
「拓の知らない人みんな」
「じゃ香織さんは違うんだな」
わたしが言葉に詰まったのは言うまでもない。
弟とはいえ香織の名前を出すのは卑怯だ。
「どうせ『みんな』って母さんと、姉ちゃんのこと大して知らない奴だろ。何にも知らねえのに『そっちの方が似合うよねー』みたいに言ってるのをカウントするなよ」
女の子の声と
「……お母さんが正しいって言うなら、それが正しいんでしょ」
「いくら母さんが正しくたって、ずっと言う通りにし続けたら、そのうち姉ちゃんが姉ちゃんじゃなくなるだろ」
わたしは拓の言葉を振り切って、部屋の扉を閉めた。
もしコンタクトを眼鏡に変えられれば、わたしも喜んで変えている。
だけど現実には、決定権はわたしの一存を越えたところにある。
決定権を奪うには誰も反論できないくらい絶対的に『正しい』答えを得るか、誰かを本気で泣かせても気にしないくらいの強い人にならなければいけないのだ。
そしてわたしは自分を押し通せるほど強くもなければ、お母さんを説得できるほどの『正しい』答えも無いから、こうするしか無いんだ。
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