第3話 ある昼の風景
「はぁ……」
よほど時間を意識していないと昼休みはすぐ訪れる。教室を見渡せば、授業の終了直後にそそくさとお弁当を持参して出て行く人もいれば、友達の席に駆け寄ってお喋りしようとする人もいる。
香織も香織でチャイムが鳴ると同時に飛び上がって「昼買ってくるぜぇ」と一階の購買に走り出していった。
わたしは香織を見送ってから、席に座ったままぐっと延びをして、鞄からお弁当を出す。
「百瀬さーん」
教室の端っこの席から黒木さんがやって来ると、席の主が引き払った後の隣の机に、まるでそこが自分の席であるかのように寄りかかる。
「黒木さん、どうしたの?」
遠慮がちに返す。香織や宮原さんがいるならともかく、わたし一人の時に黒木さんから声をかけてくるのは珍しい。
「
玲菜と言うのは、宮原さんの下の名前だ。
「宮原さんからわたしに?」
そそ。と黒木さんはお昼の入っているだろうビニール袋を指先で弄びながら、続ける。
「今日の放課後さ、玲菜が部活上がったらカラオケ行こうって話してたんだ。で、香織と百瀬さんも誘うって話になって。香織はさっきの選択授業ん時に聞いたんだけど、百瀬さんはどうする?」
「あっ、うん……」
黒木さんの問いに答えようとしたわたしの語尾は、すぼまって、最後には消え入る。
確かにカラオケは好きだ。
一人や香織、それか弟と一緒に行って思いっきり何曲も歌うのはとにかく大好きだ。
最新のチャートを追わないわたしは、小学校の頃流行ったような好きな歌を歌うので、宮原さんや黒木さんが一緒だと躊躇するけれど、香織も行くなら「はい」と言いたい。
でも、わたしは肯定の言葉を口にできなかった。
「ごめん。わたし今日はちょっと……」
「えぇー?」
黒木さんが変にわざとらしい、裏返った声を上げる。
「ごめん、今日はコンタクト買いに行かないといけないから……」
黒木さんはそのままの調子で続ける。意地悪く、わたしを責めるように、罪悪感を煽ってくるように。
「カラオケの後じゃダメなの?」
「あんまり遅くなるとダメだから……お店も閉まっちゃうし」
「いいじゃん、遅くなるったってせいぜい七時か八時でしょ? そのくらい普通じゃん」
どんどん迫ってくる黒木さんの顔。
「あの、うちはちょっと色々あって……お母さんが心配して……ね……」
「お母さん?」
黒木さんが語尾を上げて言う。
「お母さんなんかいいでしょ、別に」
「あ、いや……うん……」
語気を強めて近づいてくる黒木さんの顔に、冷静に説明の言葉を繋げなくなってくる。
何からどう、上手く説明すれば良いのか。
わたしのお母さんのことを黒木さんは知らないし、説明しても納得してもらえそうにもない。
黒木さんが納得してくれそうな口実を探して頭の中がぐちゃぐちゃだ。
黒木さんはむすっとした表情で「いいでしょ、ねえ」と語気を強めて迫る。
「ちょっと」
その声は、私の口から出かけた「はい」を遮った。
落ち着いた、でも棘のあるアルトの声。わたしは目線を少し上げて声の主の顔を伺う。
「通行の邪魔だけど。
声の主は
席から乗り出して通路にはみ出ていた黒木さんを睨めつけるような形で、彼女はわたし達を見下ろす。
「今ちょっと約束確認してたとこなんだけど、別の場所から行けばいいでしょ」
「他は楽しそうに食事してるから。ここはその子を脅迫してるようにしか見えなかった」
千里さんが冷ややかにそうやって言い放つ。
黒木さんも千里さんの顔を憎々しげに見上げていたが、千里さんは全く動じず、黒木さんが通路を開けるのを待っていた。
三十秒ほどして、黒木さんも分が悪いと思ったのか、さっき以上に不機嫌そうに眉間に皺を寄せて「はい、じゃあ百瀬さんも不参加ね」と吐き捨てて席を立ち、去っていった。
「あの、ありがとうございます……」
声量は小さく裏がえってしまったが、なんとかお礼を口にする。
だけど千里さんはわたしを一瞥もすることなく、教室のドアをくぐって姿を消した。
「……いいなあ、強い人は」
千里さんが去っていった方を見ながら、わたしはぽつりと呟く。
わたしは彼女ほど強くもなければ、何でも解決する『正しい』答えも持ってない。
暫くして香織が昼食の入ったビニール袋を手に、自分の席に帰ってきた。
「あれ? どうしたの? まだ食べてなかった?」
「ちょっとね」
わたしはお弁当箱の蓋を開ける。今日は自作のサンドイッチの詰め合わせ。
「黒木さんにカラオケ行こうかって聞かれて」
「あー、クロっちねぇ。灯理はどうしたの?」
「わたし今日コンタクト取りに行く日だから無理、って言った」
断る言葉を繋げず千里さんに助けられたことは、端折ってしまう。
「そっか、灯理も無理だったのか」
「も?」
わたしは香織の口走った接続詞を聞き返す。つまり、香織も誘いを断ったという意味だ。
香織は神妙な表情で、とても深刻な口調で言う。
「実はさ、一昨日古本屋でマンガ買いすぎちってお金無いんだわ」
わたしは「……すっごい香織らしいね」と納得と呆れの混じった返事をする。
「いや、だってさ。普段は飛び飛びにしか並ばないような名作の文庫版が百円棚と定価の棚に続きでずらーって並んでて! これは買うしか無い! ってなって、気づいたら二五〇〇円溶けてたんだよね。いやもう、これは手放した人に感謝だよ」
香織は顔を近づけて熱弁する。
香織はスポーツ少女であると同時に、衝動買いと散財大好きなオタクっ子だ。
何度か訪れた彼女の部屋は、タオルやトレーニング用の小物と、ゲームや漫画やラノベが大きなスチールラックとカラーボックスの中で不思議な調和を保っていた。
わたしにはその部屋の風景が松谷香織という少女の趣向と人間性をそのまま反映しているように思えるのだった。
「因みにレーナとクロっちにこれ言ったら、嫌な顔された」
ああ、だから黒木さんあんなに機嫌が悪かったのか。
香織がこれでわたしがあれなら、怒っても仕方ない。
「それにあたし、歌う時は一気に思いっきり好きな歌歌いたいからさ。同じだけお金出すなら大勢で一緒に行くよりは、灯理と二人くらいで歌いたいんだ」
人なつっこそうな笑みを浮かべて、香織は整形おにぎりの包装を開ける。
「だからさ。明日、みんなに内緒で二人でカラオケ行こうぜ」
うん。と頷くわたしのほっぺたは、ほんのりと熱くなっていた。
大雑把で強引なくせに、変なところで格好いいことばっかり言ってくる。
そのギャップに、わたしは時々妙な反応をしたりするのだ。
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