第一章 地下鉄に乗ったアリス(アリス・オン・ジ・アンダーグラウンド)
第1話 ある朝の風景-1
『自分らしく、カッコ良く』
わたしの目線の高さに飾られていた広告の中では、立ち並ぶ高層ビルと白い吊り橋をバックに、テレビでよく見る女優さんが不敵な笑みを浮かべて立っている。
その横に、手書きみたいな字体でそんな文句が踊っていた。白抜きになった下の部分で、それがやっとネットの転職サービスの広告なのだとわかった。
きっとこんなありふれた広告、目にしたところで気にとめるような人はそこまでいないだろう。ましてや広告がずっと心残りになり、心を動かされたりするようなナイーヴな人なんて、もっといない。
だけどわたしは、広告の文句を見た瞬間に胸の奥が嫌なふうにざわついた。
わたしは慌てて下を向き、はぁ、と大きく息を吐き出す。
それでもまだ胸のざわざわは治まらない。もう一度、より大きく息を吐き出しても、胸の奥にざわざわが燻って、くぅっと胸が締まる。
こういう感覚は、駄目だ。
一分か、二分ほど下を向いて、やっと胸のチリチリが収まって胸が楽になったわたしは意を決して顔を上げる。
わざと目のピントを変なふうに外して、広告を直視しないように。
「……駄目だな、わたし」
ざわざわに心を乱されて吐いた自嘲めいた言葉は、耳障りなくらい轟々響く地下鉄電車の走行音に混じって、自分でもわからなくなるくらい綺麗に消え入る。
広告を見ないように立ち位置をずらして目を逸らすと、電車のドアの窓に反射した自分の姿がぼうっと浮かぶ。
都立高校の制服姿の、ちんちくりんの女の子。
美容師さんに言われるがままに肩まで延ばした髪の下には、目の大きな童顔気味の、カッコ良さの欠片もない主体性の無さが滲み出た顔がある。
わたしはその顔を、目を細めて軽く睨み付けてやる。
もしわたしの手がガラスの向こうの少女に触れられるなら、見てるだけで苛々する顔に一発思い切りパンチを入れてやりたかった。
やたら抑揚のいい車内放送の後に、明るい地下鉄駅の風景にその顔もかき消される。
わたしの周囲の同じ制服の少年少女が鞄の紐に添えた指を握り、扉の方へ足を向けた。
いつも通りの、ありふれた朝の光景だ。
両開きの扉が開き、わたしは電車から降りると制服姿の群れに混じって、改札口を抜け階段を上る。
階段を登りきったとき、初夏の日差しが頭上から容赦なく降り注いできた。
強すぎる初夏の朝陽は地下に潜ったままだったわたしには強烈すぎ、思わず目をつぶる。
そうすると今まで忘れていた、瞼の裏側の異物感が急に気になって仕方なくなる。
忘れよう、忘れようと念じながら、わたしは校門へ続く道を歩いていった。だけど意識し始めた途端に、異物感はまるで嫌がらせみたいに存在感を増してゆくのだ。
「やっぱコンタクト向いてないよ、わたし」
わたしは自分と、自分以外の誰かに聞かせるように言った。
そんなわたしを朝の強すぎる陽は容赦なく照りつけ、ちりちりと前髪を焼く。
そうしてわたしはますます不機嫌になるのだった。
これが
百瀬灯理はとにかく主体性のない女の子だ。
自分の意見を殆ど口にすることはない。
意見があっても、いつもそれを口にする前に他人の言葉に押し切られるか、意見を口にした時の反応を恐れて、他人の言葉を待ち続けるばかりの、優柔不断で、風見鶏のような生き方をしてきたと思う。
この話を聞いた誰かは「そんな生き方はおかしい」と言うかもしれない。
そう言える人はきっと凄い立派で、強くて、何でもできる人なんだろうとわたしは思う。
わたしは立派じゃないし、強くもないし、何でももできない。
何をやっても人並みか、それ以下だし、自分らしくと思ったことはいつも駄目になるか、誰かを失望させた。
例えば小学校の時、自分で短く髪を切ったこと。
高学年のお姉さんの短くて跳ねたカッコ良い髪型に憧れて、お母さんが短い髪を嫌がるのを知っていたわたしはお母さんに隠れて、見よう見まねで自分で鋏を入れた。
だけど自分で鋏を入れた髪はおでこが全部見えるくらいに短く、前髪はまばらに梳いていて、ザクザクのボロボロ。自分の思い描いた理想の髪と全然違って惨めな髪型に小さなわたしは泣き出してしまった。
その上お母さんまでもが何故か泣き出し、それ以来髪切り鋏をどこかに隠してしまった。
こんなのは一つじゃない。小学校高学年でミニバスサークルに入った時も、中学生の修学旅行で班長に立候補した時も、わたしが自ら決断したことはいつも失敗と失望に終わる。
もともと強く出ることのできないわたしだ。珍しく強く出る度にこんな失敗を繰り返していると、人のアドバイスを聞いて生きた方がいいんだと考えるようになる。
全部を他人に流されがままにして、他人に決断を委ねる道を選んで、そして――。
「と、も、り」
聞き慣れた声と共にぽすん、と唐突に後頭部を叩かれて思考は現実に引き戻される。
考え事で頭がいっぱいになりながらも、何一つ滞りなく学校の玄関で靴を履き替えている自分自身の無意識のルーティンに感心する。
足を踏み換えて回れ右すると、わたしのよく見知った少女がそこにあった。
チビのわたしの目線では少し見上げたところにある、ショートヘアのよく似合う、吊り目がちの活発そうな顔。くちゃくちゃによれたブレザーとブラウス。
片手に持った高価そうなシューズ。それにほんのり酸っぱい、汗の匂い。
「……なに? 香織」
「なに? じゃないよ。さっきから何度も呼んでるのにさ、灯理ずっと無視じゃん」
ああ、うん。ごめん。とわたしは顔の前で手のひらを立てる。
首の中程くらいで切りそろえたショートヘアが揺れ、昇降口から刺す逆光の朝陽に透かされるように煌めく様は、まるで彼女自身が輝いているように見えた。
きっと作っていない可愛さとは、こういうのを言うんだろう。
わたし達はそれぞれローファーとランニングシューズを素っ気ない白色の上履きに履き替えると、教室へと足を向ける。
「考え事してたらさ、ぼんやりしてた」
「灯理ほんとそればっかだね。何をそんなに真剣になって考えてるわけ?」
「色々」
そう、本当に色々だ。どうやったら、そして何が『正しい』のかを考えるので一杯だ。
「周り見えないくらいに悩むようならさ、できるだけお日様の光に当たると良いかもよ。陽の当たらない場所や夜に悩んでると悲観的になるって母さん言ってたし」
「そうなの?」
「そうなんだってさ。建物の中とか地下にずーっといるとホルモンがどうだとかで、どうしても考えることが辛気臭くなるんだって」
香織の母は大きな病院の看護師だ。
そのお墨付きだと、なんとなく話の信憑性も上がる。
「わかった、そうしてみる」
「そうしてみなって。あたしなんか結構外に出るから悩み事なんてそんなに無いし」
再びぱしん、とわたしの肩が叩かれる。
彼女のからりとしたノリの良さと、遠慮のない強い意志は一緒にいると心地よく感じる。
だが一方で、その無遠慮な風通しの良さと押しの強さが、時々わたしに暗く湿った厭な感情を抱かせた。
ちょうど今、この時のように。
本当にわたしは嫌な子だ。
心に溜まった黒いものの存在を覚えながらも足は進む。
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