少女環状線

伊佐良シヅキ

プロローグ 誰が高楼の眺めぞや

 生ぬるい空気の中に、人を優しく包み込むようで、甘くいざなう優しい檸檬れもんのような匂いがする。

 高くかかったコンクリートアーチの橋のたもと。

 視界には見渡す限りにコンクリートと煉瓦の高楼が続き、都市鉄道の煉瓦の高架橋と青緑色のペンキで塗られた架道橋も見える。

 それらが強い夕陽に照らされているのだ。

 その橋の上を歩く人の姿は色褪せて見えて、生気も無く、動きもぎこちなく像のようだ。


 ただ一人、黒を基調とした服装の栗色の髪の女性以外は。

 年の頃は二十代の半ばに差し掛かった頃か。『表』の街では非常時を理由にもう長らく見なくなった烏の濡れ羽色をした絹のワンピースと、同色のリネンのボレロを羽織っている。

 それこそが彼女の正装であり、ここに着くまでの間散々『表』の環状線で白い目をもって見られたが、彼女はこれを着て来なければ意味が無いとさえ思っていた。

 右手には精巧な装飾の施された長い柄と頭部を伴った戦鎚ハンマーが握られている。


 懐かしい。

 街並みを眺めながらそんな温かい想いが胸の奥で生まれるが、彼女はすぐにその想いを首を振って否定する。それに伴い肩口で揺れる、栗色の髪。

 ここは焼夷弾で消え去ってしまった自分とあの人の好きだった街ではない。あの人や誰かの記憶と街の記憶を手繰って無造作に模しただけの作り物だ。と言い聞かせて、橋を渡り始めた。


「懐かしいよね、マリカ」


 彼女――茉莉伽まりかの耳に響く、優しい声。

 涙が出るほど懐かしく、そして同じだけ怒りを誘う忌まわしい音色に、茉莉伽は橋の上に現れた声の主を見つめる。


「あの人の声で、あの人の姿で現れないでくださる? 『街』の獣め」


「まあ怖いわマリカ。わたしは貴女のよく知るわたしの欠片よ?」


「お前が本当にあの人の欠片だとしても」

 彼女は戦鎚の頭を持ち上げる。目の前の、短く切った黒髪とあの時代のモダンな洋服のよく似合う女性を薙ぐために。

「もうお前は私の知るあの人ではありません。ここでこの街ごと息の根を止めて差し上げます」


「それが魔女の使命だから?」


「ええ、それが魔女の――残されたわたくしの使命だからです」


「本当に変わらないわね。マリカは。もっと楽に考えたら良いのよ」


 向かい合う黒髪の女性は優しく、茉莉伽を慈しむように笑みながら、その右手に武器を顕現させた。籠鍔の付いた刺突剣エストック

 彼女らしい武器に見えるそれの先端を、茉莉伽に向ける。

 周囲の彫像のような目に光の無い群衆たちは、武器を向け合う二人の女に興味を示そうとはしない。

ただ目や顔を伏せて、関わり合おうとしないように彼女達を避けて佇み、歩く。


「癒やしに身を委ねて、難しいことを考えるのを止めれば良いの。マリカ」


 とても優しく、そしてその裏返しの邪悪さを伴う響きに、茉莉伽は涙と舌打ちが同時にこぼれ落ちた。


 やっぱりだ。

 やっぱりこいつはもうあの人では無い。

 あの人の思いの欠片も、全ては彼女の魔法に飲まれて、消えてしまったんだ。

 この街に。

 この忌むべき環状線都市に。


 茉莉伽は肩と上腕の筋肉、そして自身の『心』に思い切り力を込め、駆け出す。


「それを癒やしと言うのはある意味では確かかも知れません。ですが!」


 風圧を伴って振るわれる戦鎚。


「それは思考の停止です! 死ねば癒やされる。死ねば解決する。それが齎したのが昭和維新と言う名の混乱と、あの大空襲ですわ! 貴方のお気に入りの封筒と便箋のあった銀座の鳩居堂きゅうきょどうは爆弾で吹き飛びましたよ!」


 だが戦鎚の面は、ちぃん! と音を立てて刺突剣の細い剣の腹を滑り、跳ね返される。


「それもまた死と破壊が全てを洗い流した結果であり、変化の始まりよ。今までだって何度もそういうことはあったわ。マリカ、貴女は何故そうも頑なに変わることを恐れるの?」


「変わることを恐れて居るのは貴女でしょうに!」


 跳ね返された戦鎚を、茉莉伽はもう一度振り直す。今度は袈裟懸けに振り下ろすように。


「こんな箱庭のような街を作って、懐古趣味者も良いところです!」


 戦鎚の柄が、頭が空を切る。黒髪の女の頭部に戦鎚の面は深々と突き刺さり、鈍い音と共に面に確かな手応えを感じた茉莉伽。

 だが、彼女は戦鎚に片方の顔を潰され、傷口からだくだくと粘った黒い液体を垂らしながらも、年の離れた妹を慈しむが如きかおで茉莉伽を見つめていたままだ。


「違うわマリカ。わたしたちは変わることも、変わらないことも両方受け入れている。不変が人を癒やし、変化がそれを伝播させる」


 彼女はひゅうん、と刺突剣を振るう。

 空間そのものの粘った檸檬の香りの空気が、彼女の大胆な踏み込みによって渦を巻くように剣先と共に茉莉伽に叩きつけられる。

 先程茉莉伽の振るった戦鎚の風圧が嘘のようだった。


「貴女は変わることを急いでいると共に恐れている。だからその焦りと怖れを捨て去って欲しいの」


 そう呟いたと共に、茉莉伽の黒いワンピースで包まれた腹には刺突剣が深々と刺さっていた。

 戦鎚で払うことも、身を躱すことも出来なかった茉莉伽は、刺突剣の与えるその痛みに堪えるしかなかった。

 赤い血がだらだらと傷口から伝い、絹のワンピースに染みこんで、ワンピースをより昏い色に染める。


 茉莉伽はふう、ふうと口元から熱い息を吐きつつ、俯き、戦鎚から手を離す。

 がらん、と戦鎚の頭と柄が橋の上の道路へと転がった。


 たった一撃でこの様とは。

 所詮は獣、街の付属物と思って舐めていたが、あの人の力をどこまでも再現している。


 ――いや、自分の中の憧れた彼女を読み取って、強くなっているのかもしれない。

 刺突剣が引き抜かれ、血が止まらなくなる。これは想像の傷なんかでなく、現実の傷だ。

 想像の力ばかりが力として発揮される世界のくせに、身体そのものはどこまでも生身でしかない。変なところだけこの街は現実と接続してくる。

 血が抜けてゆくせいでぼうっとする頭でそう考えている間、茉莉伽はとさりと膝を着く。


「マリカ。私たちと一緒になりましょう? 貴女の力があればもっと多くの人を癒やせる」


 慈母の笑みが、夕陽を遮る。手が伸ばされる。

 その笑みは優しくて、その声は懐かしくて。思わず手を取ってしまいそうで。


 それでも茉莉伽は確かな痛みに身を任せ、口を開く。


「……嫌です」


 辛うじて茉莉伽が絞り出せた言葉とともに、茉莉伽のローブの袖から銀色の銃――戦鎚や刺突剣と同じく、自らの想像力で生まれた拳銃がすっと出て、茉莉伽の手のひらに収まる。

 九四式拳銃。なんで土壇場でこんな銃を想像してしまったのかはわからないが、茉莉伽はその銃口を黒髪の女――かつての師の顔をした獣に向けた。


「私は傷を癒やされずとも、変わることを……それを抱えて乗り越えることを選びます! 死と沈滞を癒やしの手段として繰り返し続ける、不変のために変化し続ける街など、存在しなくても構いませんわ!」


 吠えると同時にぱんぱんぱん! と、銀色に輝く三発の8ミリ南部弾が黒髪の女の胸に吸い込まれた。

 ブラウス越しの胸に黒い花が咲き、薬莢が落ちる音が聞こえると共に女は胸を抑えて、はあはあと荒い息を切ってその場に崩れ落ちる。


 先程までの慈母の表情は崩れ、致命傷を負った獣のような呼吸が辺りを揺るがす。

 橋の上を歩き、佇む灰色の影はしかし、目立つ様子で荒く息を吐く彼女にも目もくれないでいた。


「魔女狩りの銀の銃弾。所詮は想像の上の魔女を殺すための銃弾を思い浮かべたのだけど……想像と感情と魔法で構築された獣にはよく効くでしょう?」


 茉莉伽は血を流すにやりと勝ち誇った笑みを浮かべた。


「これで貴女たちの弱点は知れました。あとは私たちがこの街を追い詰める。何年かかっても」


 黒髪の魔女を模した獣は、ごぼ、と黒い粘質のするものを吐き出す。


「マリカ……所詮貴女や他の魔女が幾らわたしたちを否定したところで、何も変わらないのよ。この街は帝都の傷を持つ人々を癒やし続けて、大きくなるの」


「なら、幾らでも抗い続けるだけです」


 目の前でもがく獣を、夕陽に照らされる高楼を、煉瓦高架の環状線を睥睨へいげいするようにして茉莉伽は呟く。


「時代が幾ら変わっても、この街が東京と共にある限り、この街にあらがう者は現れる。私は限界まで抗い、私が抗えなくなった時は抗う者に手を貸し続けますわ。それがこの東京に生きる魔女の――貴女がその姿を借りた、この街と獣を生み出した者の、不出来な唯一の弟子として出来る事なのですから」


「ああ……馬鹿な子」


 茉莉伽はうずくまる黒髪の女に向けて、引き金を引く。

 ぱぁん、と乾いた銃声が響き、黒い花が再び咲く。

 獣はそれきりぴくりとも動かなくなった。


「もとより私は利口ではないのですよ。本当に出来の悪い弟子なのですから」


 茉莉伽は遠くに臨む高楼に、環状線に、街全体に向けて、言う。

 それは、この街と戦い続けるという茉莉伽の宣戦布告だった。

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