第22話「開戦の煙」
元に戻ったボリスの青い瞳には、2人の死体が映っている。彼の足元に転がる死体らは、客間の入り口にいた護衛たち。平然とした顔のまま、首は90度以上に曲がっている。ボリスが背後から忍び寄り、頚椎を折って絶命させたためである。
ヴェルナーの屋敷2階へ侵入したボリスは、1階の玄関に辿り着いていた。見つからないように慎重に進んで行ったものの、護衛は玄関前の客間入り口に立つ2人だけであった。
ボリスは違和感を覚える。国の大臣という要人の警護のはずなのに、中の護衛があまりにも少ない。外と同じように、中にも多くの人員を配置するものではないかと。
今はそれよりも、作戦を続行しなくては。そう考え直したボリスは、玄関のドアを前に押した。
ドアが開くと、前から涼しい夜風が吹き込んできた。ボリスは夜風を全身に浴びながら、そこに立つ2人の男と目が合う。外で待機していたレオナルトとクラウスは、彼を見るなり強張った表情が柔らかくなった。
「待たせたな」
「いや、全然」
「そうか。それなら良かったよ、クラウス」
「お疲れ、ボリス。怪我はない?」
「全くない。心配してくれてありがとな、レオ」
心配するレオナルトに、ボリスは微笑みながら返す。それから、透明人間のエルザに話しかける。
「エルザ。さっきのは見事だったよ」
「いやぁ、それほどでもぉ」
エルザの照れる声を聞き、ボリスは口角を上げる。
ボリスは、3人がこの場にいることに一安心する。それから表情を引き締め直し、3人に告げる。
「さあ、ここからが本番だ。心の準備はできてるか?」
ボリスの投げかけに、3人はゆっくりと頷く。
「よし、レオとエルザ。中へ入るぞ」
「うん」
「りょーかい」
レオナルトに続いて、エルザが返事をする。そして、彼ら2人は館内へ足を踏み入れる。
ボリスは外に立つクラウスの肩に手を置く。
「クラウス。一人で厳しいだろうけど、任せたぜ」
「おう。増援が何人こようが、全員ぶっ飛ばしてやる」
「それは心強いけど、助けを呼んで欲しいかな」
ボリスは眉を八の字にし、苦笑いを浮かべる。反応に困っている彼に、クラウスは口角を上げて答える。
「そんなん分かってるよ。単なる冗談だ」
「それならいいけど。とにかく、頼んだぞ」
「おう」
「さてと…」
ボリスは後ろに振り返り、レオナルトと目を合わせる。レオナルトは彼の目を見ながら、ゆっくりと頷いた。
レオナルトの真剣な目つき。覚悟を決めた者の強い目だと感じたボリスもまた、ゆっくりと頷いた。
「よし。行くぞ」
「うん」
「ああ」
ボリスの掛け声に、レオナルトとエルザが応える。彼らの返事を受け、ボリスは背後のドアを閉めた。
レオナルトたち3人の前に広がる玄関ホール。民宿の一部屋くらいは大きな空間で、幾何学模様の絨毯やシャンデリアと内装が豪華である。
正面には、客間に通じる二枚扉。左右には赤いカーペットが敷かれた長い廊下がある。
ボリスはウエストポーチからハンドグレネーを2つ取り出す。それらを左手に持つと、エルザに話しかける。
「エルザ。作戦通り、正面のドア横で待機だ」
「うん」
「これを左右の廊下に投げて、煙を起こす。中の奴らはパニックになって、正面ドアから飛び出してくるだろう。その混乱に乗じて、透明人間の君が忍び寄る。いいな?」
「了解っ!」
エルザは明るい返事をする。彼女の前向きな返事を受け、ボリスは左隣のレオナルトへ視線を向ける。
「レオ。君は、この騒ぎを大きくする煽り役とエルザのサポートだ。できるか?」
「うん。任せてよ」
レオナルトは前向きな返事をする。彼の返事を受け、ボリスは安堵の笑みを浮かべる。
作戦の確認が済んだ。エルザは作戦通りに、透明状態のまま客間のドア横へ移動した。
ボリスは右手でグレネードのピンを外す。そして、まずは右側の廊下へ投げた。
ヴェルナーは、テーブルのグラスを眺めていた。自分のグラスに注がれていく赤ワイン。注いでいるのは、赤いドレスを身に纏う金髪の女性。彼女の右隣に座るヴェルナーから「10番」と呼ばれている奴隷である。
赤ワインがグラスの半分まで注がれる。10番が手を止めると、ヴェルナーは無表情のまま左に顔を向ける。目が合った途端、彼女は身体をビクッと震わせた。
後で躾をされる。ヴェルナーの無表情を見て、10番はそう感じた。そして、彼女の脳裏に凄惨な光景が蘇る。
約3週間前、ヴェルナーの屋敷にフェルナンドが訪れた日のこと。客人であるフェルナンドの前で粗相をしたことで、鞭打ちの刑に処された。
裸体に打ち付けられる鞭。鞭の打撃は強烈で、一発受けただけでも悲鳴を上げずにはいられなかった。背中の皮膚は裂け、血まみれになる。そんな状態で泣き叫び、何度謝っても、ヴェルナーは嬉々とした表情で打ち続けた。「これは、君のための躾なんだ」と言って。
凄惨な記憶を思い出し、10番は陰鬱な気分に陥る。それと同時に、背中の古傷が痛み出してくる。
10番は恐怖を感じながら、ヴェルナーの反応を窺う。すると、ヴェルナーは笑みを浮かべ、彼女の頭を撫で始めた。
「ありがとう、10番。注ぎ方が上手になってきたね」
「あ、ありがとうございます…」
10番は呆然とする。予想外の反応に困っていると、ヴェルナーが彼女の左肩へ手を回し、身体を引き寄せた。
「この間はごめんね」
「え?」
「背中、まだ痛むでしょ?今でもやりすぎたって反省してるんだ。せっかくの美しい背中を傷だらけにしてしまって」
「いえ。私のミスですから…」
「ふふ。優しいね」
ヴェルナーは、そう言って優しく微笑む。10番は戸惑いながらも、ほっと一安心する。
ヴェルナーは10番の左肩に手を回し、身体を密着させたままでいる。その状態のまま、右手に持つグラスを傾けながら、呼びかける。
「フェルナンド君」
「はい」
ヴェルナーの背後にいるフェルナンドが応じる。ヴェルナーは振り返ることなく呟く。
「やっぱり、いいものだよ」
「何がですか?」
「自分の誕生日を他人と過ごすことだよ」
ヴェルナーの答えに、フェルナンドは片眉を上げる。
「大半の人は、誕生日に祝われるのは当たり前だと思っているだろうね。自分を大切に思ってくれる親や友人がいるからね。でもね、そうじゃない人もいる」
「天涯孤独の人ですか?」
「ご名答。親や友人のいない孤独な人もそうなんだけどね、他にもいるんだよ。フェルナンド君、分かるかい?」
「…、思いつきませんね」
「ははは、降参するのが早いな。まあ、難しかったか。正解はね、"奴隷"だよ」
「奴隷、ですか?」
「そう。私もかつて奴隷だったのは、話したよね?」
「ええ」
「えっ?」
10番は驚きで目を見張る。彼女の反応を見たヴェルナーは、くすりと笑った。
「そう。私もかつては君と同じ、奴隷だったのさ」
「…」
10番は唖然としながら、ヴェルナーを見つめる。ヴェルナーは小さなため息を吐いてから、自身の過去を語り始める。
「少し歴史の勉強といこうか。今から30年前。この国がかつて、"フリュークス"という名の国であった時。その時期に起きた戦争で、多くの人が死んだ」
「"アドラ戦争"、ですね?」
フェルナンドの問いに、ヴェルナーは頷く。
「そして、国民は困窮した。食べ物はないし、金もない。街中は痩せた人ばかりで、餓死なんて珍しくなかった。それに、一家心中もね」
「それは大変でしたね」
「そう。大変だったんだよ、フェルナンド君。今の平和な世界とは違う、地獄のような世界だった。その時の僕は10歳で、すでにひとりぼっちだった。父は僕が生まれる前に死に、母は戦争後の生活で、僕だけでも食わせようと無理して死んだ」
そこまで語ると、ヴェルナーは赤ワインを一口含んだ。それから小さな息を漏らすと、話を再開させる。
「天涯孤独となった僕は奴隷商人に捕まり、富豪に売り飛ばされた。そこからが、新たな地獄の始まりさ」
ヴェルナーの視線が上へと向く。
「ほぼ休みなく働かされ、心身共にボロボロだった。粗相をしたり、気に入らないことがあれば、殴られたり蹴られたりした。"躾"と称してね。酷い時は、葉巻の火を身体の何箇所かに押し付けられたな。あれが一番キツかったなぁ。その時の傷跡は、まだ消えてない」
ヴェルナーは思わず苦笑する。
「奴隷は道具と同じ。使えなくなったら、代わりを用意すればいい。一つ一つに愛着を持つ必要なんてない。だからね、生まれてきたことを祝われることなんてないのさ。誕生日を迎える度に、自分は必要とされていないって嫌な気分になったよ。僕は何のために生まれたんだろうってね」
そう語るヴェルナーは、寂しげな笑みを浮かべる。フェルナンドと10番が何も言わずにいると、ヴェルナーがぽつりと呟いた。
「ここにいる全員が、僕の誕生を心から祝ってるわけじゃないだろうね」
「どういう意味ですか」
フェルナンドが、すかさず尋ねる。
「羽目を外したいだけの人もいるだろうねって話さ。それに、地位のある僕と関係を築くために、仕方なく来たっていうのもね」
「悲観的になってますね。話題を変えられてはどうですか」
「フェルナンド君。君は本当に優しいな。でもね、どんな理由であろうと、僕はそれでもいいんだよ」
「どういう意味ですか」
「この場にいてくれるだけで十分ってことだよ。まあ、君には理解できないだろうけど」
「…」
フェルナンドは反応に困り、無言で応じる。そんな彼に、ヴェルナーは不敵な笑みを浮かべるだけだった。
ヴェルナーは左隣の10番へ目を向ける。
「そういえば。10番の誕生日は3ヶ月後だね」
「え?あ、はい…」
10番は驚き、小さな返事をする。ヴェルナーは笑みを張り付かせたまま、彼女に告げる。
「大丈夫。その時は、必ず祝うよ。だからさ、お願いがあるんだ」
「…何ですか」
10番が恐る恐る尋ねる。すると、ヴェルナーの口角が限界まで吊り上がる。
「毎年祝えるように頑張ってね」
「は、はい…」
10番は背筋が凍る感覚に襲われる。励ましの言葉の裏に、別の意味が込められていると気付いたからだった。「死にたくないなら、失望させないように必死で働け」と。
フェルナンドは険しい目つきで、ヴェルナーと10番を見ている。ヴェルナーの彼女への態度に、飽き飽きとしている時だった。
「おい!煙だ!」
会場内に一つの声が響き渡る。その一声により、会場がざわめき始める。会場の左右の扉から、白煙が入り込んできたためだった。
室内に入り込んでくる煙に、小さな悲鳴が上がってくる。フェルナンドは異変を目の当たりにし、表情を険しくする。すると、正面扉が勢いよく開かれた。
「大変です!館内に火の手が回ってきてます!」
そう声を張り上げる一人の男。カーキ色の軍服姿の男は、危機迫る表情を浮かべている。彼を参加者たちの不安は、恐怖へと一気に変わる。
「冗談じゃない!私は逃げるぞ!」
「そうだわ!早く逃げましょう!」
一組の男女が怒鳴り声を上げながら、正面扉へ駆け込む。すると、他の参加者たちも彼らの後を追うように駆け込み始めた。
大混乱へと陥った客間。悲鳴を上げながら逃げていく光景を目の当たりにし、ヴェルナーは口角を上げる。
「やっぱり来ちゃったんだ。どうする?フェルナンド君。私も彼らの後に続いた方がいいのかな?」
「…いえ。この場に待機してください。逃げた先に、罠があると思われます」
「ふーん。分かった」
ヴェルナーは訳を尋ねることなく、彼の指示に従うことにする。
辺りを冷静に見渡すフェルナンド。そこへ、黒い軍服姿の女性が駆けつけてきた。肩甲骨まである長い金髪に、右目に眼帯といった特徴の女性である。
彼女に続き、黒い軍服姿のブラウン3兄弟が駆けつけてきた。客間の3つの扉の前に一人ずついた、容姿がそっくりな三つ子の兵士らである。
フェルナンドは即座に、彼らへ指示を出す。
「分かっていると思うが、この煙は単なる撹乱だ。アインス。お前は先ほどの兵士を追え。アルバの一員に間違いない」
「了解」
アインスと呼ばれた女性が返事をする。彼女の返事を受けフェルナンドは、ブラウン3兄弟へ目を向ける。
「お前たちは、館内にいる侵入者を探し出せ。さっきとは違う奴がいるはずだ」
「「「了解しました」」」
3兄弟の返事が重なる。そして、彼らは速やかにフェルナンドの元を去って行った。
それからほどなくして、アインスも去って行った。ヴェルナーは彼女の背中を見つめながら、フェルナンドに問う。
「で、君はどうするんだい?」
「ここで待ち構えます」
「待ち構える?」
「この煙だらけの部屋に潜んでいるであろう敵をです。この混乱に乗じて、あなたを殺すつもりなのでしょう」
「なるほどねぇ。この騒ぎは私以外の奴らを追い払うのと、戦力を分散させるためだったというわけだね?」
「そう考えてます」
フェルナンドはそう答えると、
「どんな敵かは分かりませんが、必ず仕留めます」
フェルナンドの身体から、殺気が放たれる。彼の姿を見て、ヴェルナーは安堵し、呟く。
「頼もしいね。"魔槍"の力を存分に発揮してくれ」
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