第1話 はじまりの日



 少なくともその日は、柏尾陽斗かしおはるとという15歳の少年にとって、何の変哲もない、日常の一コマとして過ぎ去っていくはずの一日だった。



「……よし、じゃあ今週の授業はここまで。受験が終わってひと心地ついている奴も多いと思うが、だからといって週末に羽目を外し過ぎないようにな。じゃ、また来週」


 六限の終わりを告げるチャイムを耳にした教師が、軽く注意を述べながら教室を後にする。

 扉が閉まるよりも早く、教室内はにわかに騒がしくなり始め、生徒たちがめいめいに帰り支度を始めた。


「ん、ふぁ……」


 喧騒の中で、少年――陽斗は、あくびを噛み殺しながら伸びをする。

 開いていた教科書、一通りの板書を終えたノートをぱたりと閉じ、自分も帰り支度を始め――


「よー柏尾、この後暇かー?」


 ようとしたところで、不意にかけられた声に顔を上げる。

 陽斗の机の隣にいつの間にか立っていたのは、陽斗といくらか親しい仲の友人だった。


「ん、なんで?」

「これからさ、有村たちと一緒に駅前までカラオケ行くんだよ。ちょっと早えーけど、中学最後の思い出作り? みたいな」


 友人の指さした方には、同じく陽斗と時々つるんでいた面々がそろっているのが見える。チャイムが鳴ってからそう時間もたっていないはずなのに、いつの間にやら揃って帰り支度を済ませていたらしいので、陽斗は少し驚いていた。


「んでさー、良ければ柏尾もどうだ? カラオケ、嫌いじゃないだろ?」

「ん、まぁな。……ただ、ゴメン。今週は門限がちょっと早くてさ、あんまり遊んでたらまた締め出されちゃうんだよ」

「ありゃ、マジか。最近厳しいんだな、柏尾んとこのおばさん」

「まぁ、ね。厳しいっていうか、気に入られてないっていう方が正確なんだろうけど」


 陽斗の言葉に首を傾げた友人の代わりに、別の友人が口を挟む。


「柏尾って、たしか親戚の家でイソーロー居候してるんだっけ? なんか、昔っから仲悪かったって前言ってた気がするけど」

「うん、そんな感じ。ぶっちゃけ仲悪いっていうかいないモノ扱いだけどね」

「は? なんだそれ酷くね? 柏尾別になんも悪いことしてないんだろ?」

「俺が、っていうよりは、両親が仲悪かったらしいから、それの続きって感じかな。ま、虐待喰らってるわけでもないし、再来月から別の家に移る予定だから、もうちょっとの辛抱ってやつだよ」


 そういうものなのか……? とでも言いたげな表情を見せる友人たちに対し、陽斗は「ともかく」と場をまぜっかえす。


「そういうわけで、今日はちょっとパス。来週だったらたぶん時間に余裕あると思うし、みんなが予定合いそうなら、その時にまたなんか行こうよ」

「おっけ。なら俺らも予定空けとくわ」

「ありがと。んじゃ、また来週な」

「おう、そんじゃーなー」


 教室を後にする友人たちの背を見送ってから、陽斗も帰り支度をすませる。

 黒板上の時計を見れば、そろそろ贔屓のスーパーマーケットがタイムセールを始めるであろう時間帯を指し示していた。買い物と帰路で30分はつぶれるであろうことを考えると、余裕がないわけではないが、急いだほうがよさそうな時間帯である。

 忘れ物が無いかを確認してから、陽斗は席を立って、足早に教室を後にした。





 夕食の調達を終え、スーパーを退店したころには、時刻はすっかり夜に差し掛かろうかという段階になっていた。


 陽斗が居候している伯母の家は、学校最寄りの駅から歩いて、20分ほどかかる距離にある。

 通っている中学校や、スーパーのある商店街からそこまで遠い位置にあるわけではないものの、ここから帰り着くにはやや時間がかかる。伯母の帰宅時間もんげんにはまだいくばくかの余裕があったが、なるたけ早く帰るに越したことはないので、陽斗はやや早足で帰路を辿っていた。




(……なんか、だな)


 使い古した買い物袋の中身をガサガサと揺らしながら、陽斗はふと、言いようのない「違和感」を抱く。


 この時間であれば、子供の笑い声や車のエンジン音など、たくさんの喧騒がひっきりなしに聞こえて来るような時間帯のはずだ。

 しかし、陽斗が歩いているいつもの通学路は、まるで音を忘れてしまったかのように、しんと静まり返っている。生活音も、動物の鳴き声も、木の葉のさざめく音すらない、不気味なまでの静寂は、まるで誰かがこの先へと立ち入ることを禁じでもしたかのような、そんな空気を感じさせた。


 帰路を急ぐべきか。そう考え、陽斗は歩調を早めようとする。




 その時、陽斗はふと、目の前に人影が見えることに気がついた。



 進行方向の先、道端の塀に背を預けて佇んでいる人影は、女性だ。

 陽斗の上背よりも高いすらりとした長身と、夕日に赤みがかった美しい白銀の髪を、腰あたりまで伸ばした、特徴的な出で立ち。手元のスマホらしき物体をつついて、難しげな表情を作っているその女性は、周囲に全く人がいないことも手伝ってか、ひときわ強い存在感を放っていた。


(海外の人が迷った、のかな? でも、俺英語なんて話せないしな……)


 それでも助け舟でも出すべきか、そもそも助けを必要としているのだろうか……と悩んでいると、女性の側も近づいてくる陽斗の存在に気がついたらしい。

 何の気なさげに顔を上げた女性は、陽斗の姿を認識――するや否や、真昼の青空のような青い瞳を見開き、ギョッとした表情を見せた。


「え、ちょっ、キミなんでここにいるの?!」


 慌てた様子でそう問われ、陽斗は思わず首を傾げる。


「え? なんで、って……ここが帰り道だからですけども」


 正直に答えるものの、その答えは望む形の返答ではなかったらしく、女性は端正な顔立ちに難しげな表情を浮かべていた。


「……普通に歩いてここに来たの?」

「ええまあ、自転車持ってませんし」

「んや、そういうことじゃないんだけど……おっかしーなー、はずなんだけど……」


 疑問に首を傾げていた女性だったが、思い直すように表情を変えると、真剣な面持ちで陽斗の肩に手を置く。


「ごめんね。帰り道急いでるところ悪いんだけど、今この辺はちょっと危ないんだ。だから、今日のところは別の道から帰ってくれないかな?」

「え? いやでも、 この先の路地はここからしか入れないんですけど……」

「ありゃ、マジか。んじゃあ、ちょっと戻ったところに公園あるでしょ? あそこで時間潰しておいて欲しいな。そんなに長いこと封鎖してるわけじゃないからさ」

「って、言われても……」


 チラリとみやった腕時計は、もういくばくかもすれば門限の時間となる時刻を指し示している。女性の言う「封鎖」とやらがどれほど続くかはわからないが、今から公園で時間を潰して帰るとなると、ほぼ確実に門戸が閉じられているであろうことは容易に想像が付いた。


「お願いします。ダッシュで駆け抜けるんで、帰らせてもらえませんか?」

「うぅん、そうさせてあげたいのはやまやまなんだけど、はいつかわからないんだよ。最悪、キミが巻き込まれて怪我する可能性だってある以上、お姉さんとしては通すわけには――」


 そんな押し問答を繰り広げていた陽斗は、そこでふと、何かの音を耳にする。


 びしり、という、分厚いガラスにヒビが入った時のような、そんな聞き慣れない音。

 幻聴だろうか、と周囲に目線をやる陽斗は、目の前の女性が苦々しい顔を作ったことに気がついた。


「……いや、確かに今自分で『いつ出るかわからない』とは言ったけどさぁ。よりにもよって今なのは、ちょっと嫌がらせじゃないかなあ?」

「な、何が、ですか?」

「ごめん、詳しい説明は後。――来るから」


 そう言い残して、尋常ならざる雰囲気を作る女性は、その場で振り返り、空を仰ぐような所作を見せる。

 何事だろうか、と、何気なく女性の視線を追った陽斗は――そこで、言葉を失った。



 理由は単純明快。


 陽斗と女性が見上げた先。

 茜色に染まった空に、巨大な「亀裂」が生じていたから。



 まるで、空そのものがガラスに覆われていて、そのガラスがひび割れているかのように。空の片隅に、虹色に輝く巨大な亀裂が生じていた。

 それも、亀裂はただそこに在るだけではない。陽斗が呆然と見上げているその間も、びし、びしと、かすかに、しかし確実に、その規模を拡大させていた。


「な、な……?!」


 あまりにも非現実的な異常事態を目の当たりにして、陽斗の口からは、声にならない悲鳴が漏れる。


「よりによってこんなイレギュラーとご一緒とはねぇ……ったく、空気読めないんだか読めてるんだか」


 混乱する陽斗とは対照的に、女性の反応は至極落ち着いたものだ。


「ごめんね、キミ。言ってることコロコロ変えて悪いけど、この辺のどこか物陰に隠れといて。を見ることになる以上、タダで帰してあげるわけには行かなくなっちゃったからさ」


 有無を言わせない強い口調と気迫に気圧され、陽斗は喉元まで出かかっていた言葉を飲み込まされる。

 何事が起きているのかはさっぱり理解できなかったが、少なくとも今は、この女性に従う他ない。そんな直感が、陽斗を素直にさせていた。



 隠れるなら、塀の向こうが適切だろうか。そんなことを考えかけたのと、ほぼ同時。

 突如、空に刻まれた亀裂が、爆砕音と共に割れ砕けるのが見えた。


「ッ……!?」


 亀裂が大穴に変じたことを理解するよりも早く、陽斗の頭上から、虹色に煌めく無数の破片らしきものが、烈風と共に降り注ぐ。

 

 一瞬の、しかし強烈な破砕の余波が通り過ぎると同時に、今度は腹を突き上げるような振動が陽斗を揺るがす。

 何が起きたかを把握するため、視線を正面に戻した陽斗が目にしたのは――





「――――ギシャアアアァァァァ!!!」


 影のようにくすんだ黒灰色の、巨大な体躯を持つ、異形の「獣」。


 いつも通りに過ぎ去るはずだった日常を打ち砕く、「非現実」の権化だった。

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