春ノ巻 穴見と花見 5

 一九がやってきたのは、運河が流れる深川ふかがわ。とある道のわきに、一つの屋台があった。屋台の暖簾のれんには、天ぷらと書かれており、一人の男が作業をしていた。


「こんにちは、善哉ぜんやさん。お店、やってらっしゃいますか?」

「一九先生じゃありませんか! 勿論、やってますよ。ささっ、どうぞどうぞ」

 天ぷら屋台の店主、善哉にうながされて、一九は屋台に近づく。善哉がいとなむこの天ぷら屋台は、一九の行きつけなのだ。


「今日は、なにがありますか?」

「ちょうど物を仕入れたばかりなんで、なんでもありますぜ。一九先生が好きな白身魚も!」

「なら、それをください」

「あい! 少々お待ちくださいね!」


 注文を受けた善哉は、魚を慣れた手つきで素早くくしに刺し、天ぷら粉をつけて、さっとげていく。


「ほい! お待ちどうさま」

「ありがとうございます」


 揚げたての天ぷらを受け取り、代金を支払う。


「うーん! この魚のぷりっぷりとした身に、油っこすぎないころも。たまりませんねぇ」

「ははっ。先生に喜んでもらえて、なによりです。他のも、どうですかい?」

「じゃあ、次は穴子をお願いします」

「はい!」


 善哉に新しく穴子を揚げてもらっている間、一九は白身魚の天ぷらを、はふはふと言いながら、味わって食べる。


「穴子、揚がりましたよ!」

「どうも」


 一九は善哉が差し出した穴子の天ぷらを、受け取った。

 穴子を食べながら、一九は妖怪の里に行くときの手土産を何にするか、考えていた。


「善哉さん。この時期のしゅんの食べ物って、なにかありますか?」

「この時期だと……あ、いいのがありやすぜ。野菜なんで、精進揚しょうじんあげにはなるんですが」


 そう言って、善哉は何かを揚げ始めた。


「できましたよ。さ、どうぞ食べてください」

「いただきます」


 一九は善哉がくれた精進揚げを口にする。


「これは……たけのこですか?」

「さすが一九先生。その通り!」


 善哉は得意げに笑った。一九はまじまじと、筍の精進揚げを見る。


「精進揚げは、今までも食べたことはありますが、筍は初めて食べました。こんなにおいしいものなんですねぇ」

収穫しゅうかくしたばかりのものが、一番うまいんすよ。時間がたったものも、アク抜きをしっかりすれば、ちゃんと食べれますよ」

「なるほど」


 妖怪の里への土産は、今回は筍になりそうだと一九は思った。


「筍って、日持ちしますか?」

「手を加えなければ持ちますぜ。今の時期は、そんな暑くありませんし。どっか行くんで?」

「はい。瓦版かわらばんが売れたので、取材でまた箱根のほうに」

「え!? 一九先生、瓦版を書いたんですか!? 言ってくれれば俺、買いに行ったのに!!」

「新しくってもらっていますから。そちらはお店に置くので、店でご購入ください」

「お、店……。一九先生はいますか?」

「どうでしょう。明日には出立しゅったつしてしまうので、行き違いになるかもしれません」

「な、なるほど……。怖い、ですが、先生の瓦版を読みたいので、買いに行きますね!」


 実は善哉も蔦屋が怖いのだが、それよりも一九の書いた瓦版を読みたいと思ったのか、力強くうなずく。


「で、どんな話を書いたんです?」

「妖怪ものですよ。でも、勧善懲悪かんぜんちょうあくの妖怪ものとは違うので、楽しみにしててください」

「そいつはいい。必ず、買いに行きますね」


 善哉はにかっと笑った。それに一九も微笑み、たもとから出した手ぬぐいで口元をぬぐって、筍の代金も払うと、善哉に別れを告げた。


「お腹も甘味分かんみぶんくらいの余裕よゆうはありますし、予定通り桜見物に行きますかね」


 一九は桜見物のついでに美味おいしい甘味処かんみどころがある上野に向けて、歩き出した。しかし……。


「な、なんですか、この人混みは……」


 予想以上の人の多さに、一九は呆気あっけにとられた。


 どこを見回しても、人、人、人。桜の数より人が多い。しかも目当ての甘味処は、大行列をしていたため、一九は肩を落とした。


「せっかく来たのに、これではゆっくり花見をすることも、甘味を食べて帰ることも無理そうですね。今日は、家でまったり、いや、湯屋にでも行きましょうか。あんみつ、食べたかったなぁ……」


 一九は、はぁっと深くため息をついて、家路いえじについた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る