旅ノ巻 箱根の先へ 7

 弥次郎も蔦屋のことは知っていたのか、顔が引きつらせる。彼はどんな姿を想像したのか、ぶるりと体をふるわせた。その仕草に一九は苦笑する。


「みんなが、あの人を見たり、話を聞くと怖がりますね」

「だってよ、すげぇでかいんだろ? そんな奴に見下ろされて、男なのに女みたいな言葉で話されたら、誰だって不気味だろうが!」

「それはそうだ。あははははっ!」


 一九は高らかに笑った。

 それから2人の旅は順調に進んだかに思えたが、途中で雲行きがあやしくなってきた。


「これは、次の宿場町でいったん、足を止めたほうがいいか?」

「ですね。雨の中を歩くのはちょっと嫌ですし、次の宿場町で休みましょうか」


 そういうことで、2人は神奈川の宿場町で休むことにした。2人が運よく空いていた宿に到着した途端とたん、雨が降り出した。


間一髪かんいっぱつだったな」

「はい。よかったです」


 2人は部屋に案内され、旅装束たびしょうぞくを脱ぐ。女将おかみからはすでに風呂の準備はできていると声をかけられたので、一九は弥次郎に入るよううながした。


「弥次郎さん。先にどうぞ。私はもう少し休んでいたいので」

「最初は保土ヶ谷か戸塚までって言ってたくせに、この距離でへばるようじゃ大変だぜ?」


 弥次郎は意地悪そうに笑いながら、弥次郎は風呂道具を持って、宿が用意してくれた五右衛門風呂ごえもんぶろに向かった。

 弥次郎が風呂に行ったので、一九は大の字でたたみの上に転がる。


「旅なんて、上方から江戸に来た時以来ですから、思ったより体力が落ちていますね……」


 しばらく屋根にあたる雨音を目を閉じて聞いていた一九だったが、ドスドスと足音が聞こえてきて、目を開けた。部屋にやってきたのは、風呂からでてきた弥次郎だった。


「おいおい、一九。なんでそんな大の字で寝てんだよ」

「思ったより早かったですね。ちゃんと汚れを落としましたか?」

「当たり前だろうが! 俺はこれでも、綺麗きれい好きなんだ」

「それは失礼しました。では、私も入ってきますね」


 一九は起き上がって、着替えを手に持ち、風呂に向かった。


「ふぅ。疲れも一緒に溶けていくようです」


 体の汚れを落とした一九は湯船に浸かり、深く息を吐き出した。


「しかし、ここまで暗いと、さすがに薄気味悪うすきみわるいですね」


 この時代は当然ながら、電気なんて便利なものはない。

 申し訳程度に、すみにはろうそくが灯されているが、ほとんど意味をしていない。次第に暗闇にも目が慣れ始め、だが、そんな中でも雨音を聞いていると、なんだか落ち着いてくるというもの。一九はうっかり寝ないようにと、風呂から出ることにした。


「ガー、グオー! ガー、グオー!」


 部屋に戻ると、ひどいびきをかいて弥次郎が眠っていた。布団はばされており、一九はかけ直してやる。


(私も明日にそなえて、寝ましょうか)


 弥次郎が布団から腕や足を飛び出させているため、一九は彼の寝相ねぞう被害ひがいに合わないように、距離をとって布団をいた。


「おやすみなさい」


 一九はふぅっと、ろうそくの火を吹き消した。

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