旅ノ巻 箱根の先へ 5

 一九も手を止めずに、蔦屋の質問に答えた。


「重三郎さんは、『野暮と化物は箱根より先』ということわざを、知っていますか?」

「まぁ、有名だからね。それが何だって言うの?」

「湯屋で、妖怪は箱根の先に住んでいるに違いないって、言っている方がいて」

「まさか、確かめてくるって言うの? あんた、妖怪が本当にいると思っているのかい?」


 蔦屋の問いに、一九は商品である本を抱えたまま、天井をあおぎ見る。


「どうでしょう。存在したら面白いと思いますが……」

「面白い、ねぇ。怖いとは思わないのが、あんたらしい」

「面白いから、妖怪を題材とした作品が、多くあるのでは?」


 蔦屋は「えぇそうね」とうなずく。


「でも、たいてい、妖怪は悪者さ。悪者は妖怪退治で有名な渡辺綱や、坂田金時に倒されるのが運命。……あたしの言いたいこと、付き合いの長い一九なら、わかるだろう?」


 一九はごくりと、つばを飲み込む。

 蔦屋が言葉にしなくても、一九は彼が何を言いたいのか、理解していた。


中途半端ちゅうとはんぱに似たような話を書きやがったら、承知しないからね」


 蔦屋の鬼のような形相ぎょうそうに、一九はただひたすら首を縦に振る。


「わ、わかっています。だから、行くんです。もしかしたら箱根には、江戸にはない妖怪の話があるかもしれませんし」

「そうかい。なら、出立しゅったつは明日だね」

「え? 明日!? そんなに早く行かなければならないのですか!?」


 急すぎる話の展開に、一九は戸惑った。


「何を当たり前のこと言っているんだい⁉ 物語ってのはね、書いた者勝ちなんだ! 面白いネタは使われる前に、とっとと書くものよ! そんなこともわからないの!?」

「は、はい! すいません!」


 蔦屋の怒鳴り声に、一九は腰を折って謝罪する。その際、一九が腕に抱えていた本たちが、ばさばさと床に散らばった。


「あっ」

「品物は丁寧ていねいに扱いな!」

「いたっ!」


 蔦屋が投げた帳簿は、一九の額に命中した。

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