旅ノ巻 箱根の先へ 2

 一九はもともと、浄瑠璃じょうるり作家だった。浄瑠璃とは、三味線しゃみせんを伴奏楽器とする、音曲語り物のことで、一九はその物語を作る側だった。


 一九がまだ若く、上方かみがたという今でいう大阪にいる頃、いくつかの作品が上演されたことがある。しかし、いかんせんどれも人気が出ず、すぐに打ち切りになってしまっていた。


「上方でだめなら、文化の中心である江戸ならばどうでしょうか。行ってみる価値はあるはずです!」


 一九はそう勇んでやってきたのだが、現実は決して甘くなかった。江戸では、一九の作品を採用してくれる所が一つもなかったのだ。


 何件もの芝居小屋を回り、時には宮地芝居みやちしばいという寺社奉行じしゃぶぎょう管轄かんかつする社寺しゃじ境内けいだいもよおされている芝居小屋にも原稿を持って行ったが、そこですら門前払いをくらった。


「お願いです! もうここで20件目なんです! どうか私の作品を上演してください!」


 一九は土下座をしてまで、一座を率いる座元ざもとに頼み込んだ。


「……仕方ねぇな。そこまで頭を下げられちゃあ、断るのもしのびねぇ」

「ありがとうございます!」


 一九の境遇きょうぐうを哀れに思った座元は、一九の作品を上演してくれた。だがやはり人気になるほど人の入りは良くなかった。


「悪いな。こっちにも生活ってもんがあるからよ」


 一座の座元がそう言って、今後は一九の作品を採用しないと宣言した。つまり、一九は浄瑠璃作家としての道を断たれたといっても過言ではない。しかし、生きていくには、金が必要だ。一九は貧乏長屋びんぼうながや傘張かさはりや、引き札というちらし描きの仕事をして、なんとか生活を凌いでいた。


 だが、一九はとてつもなく、運が悪かった。傘は売れず、引き札描きの仕事もなかなか入ってこない。あげく、隣家の寝煙草ねたばこが原因で、住んでいた長屋は全焼した。


 一文無しで食べ物を買う金も無く、帰る家もない一九は、ついに行き倒れてしまった。


(あぁ。私はこのまま、野垂のたれぬのか。短い人生だった……。三途さんずかわの向こうで父上が、こちらに来るのはまだ早いと、叫んでいる気がする……)

「ちょっとあんた。こんな道ばたで寝てたら、荷車にかれるわよ?」

「う、うぅ?」


 一九がうめきつつ顔を上げると、逆光で相手の顔は見えなかったが、体格のいい男がいた。


「あら? あんたもしかして、一九じゃない!?」

「……え?」

「やぁね! 忘れたの? あたしよ、あたし。蔦屋重三郎よ!」

「じゅう、ざ……さん?」


 ぐぅぅぅ!


 人がいない通りに、一九の腹の虫の音が盛大に響き渡る。


「あはははは! なんだいあんた、行き倒れかい! 仕方ないねえ。あんたの面倒、あたしがみてあげるわよ」


 そうして、一九は古くから付き合いがあった蔦屋重三郎に、この広い江戸で奇跡的な再会を果たしたのだった。

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