旅ノ巻 箱根の先へ 1

 徳川幕府が治める天下泰平てんかたいへいの世。多くの人がにぎわう幕府のお膝元である江戸の町。


 そんな江戸の中にある町の一角に人気の版元はんもと、今でいう出版社があった。屋号は蔦屋つたや。そこのお抱え絵師である一九いっくは、部屋のすみに置かれた文机ふみづくえで、ひたすら筆を動かしていた。


「ここ、このような展開ではないほうがいいですね。あぁ、この表現はだめです。情緒がありません」


 一九がしている仕事は、文字しか書かれていない物語の内容にあったを描くこと。彼は現在、担当している本の出来に、ぶつぶつとけちをつけながら、手を動かしていた。


 しばらくして、ことり、と一九は筆を置く。完成した絵を見て、満足そうにうなずいた。


「うん。こんなものですね」

「ちょっと一九! いつまでやってんのよ!」

「うわっ!」


 壊れんばかりの勢いでふすまを開けられ、一九は座ったまま、飛び上がった。

 一九が恐る恐る振り返ると、部屋の入り口に立っていたのは、歴戦の武士のようにきたえられた筋肉を惜しげもなくさらし、背も高く目つきの鋭い男だった。細身で垂れ目でいかにも気弱そうな一九とは、雲泥うんでいの体格差だ。


「じゅ、重三郎じゅうざぶろうさん」


 男の名は蔦屋重三郎つたやじゅうざぶろう。版元蔦屋の主人で、元武士、ではなくれっきとした商売人だ。


「もう! 一つの作品に、そんな時間をかけるんじゃないよ!」


 蔦屋は口元に手をやり、小指を立てながら女言葉で、一九に説教をする。


「いい!? 他にもやることはいっぱいあるんだから、てきぱきとやってちょうだい!」


 迫力のある体格と、その言葉づかいから、『この世に妖怪がいるとしたら、それは蔦屋重三郎だ』と恐れられているが、女の悩みを理解してくれると女性客には人気がある。

 世の中は実に不思議で、うまいこと成り立っているものだ。


「ちょっと一九! 聞いてるの!?」


 いか心頭しんとうな蔦屋に、一九はあわてて姿勢を正した。


「す、すみません! 今、描き終えたところです!」

「まったく。あんたのことだ。どうせ本の内容にケチをつけながら、やっていたんだろう?」


 図星をつかれ、一九は目をそらした。

 蔦屋は深々とため息をつき、頬に手をえ、悩ましげな表情を浮かべる。


「一九。こんなこと言うのはあれだけど、あんたは浄瑠璃じょうるり作家として、やっていけていないんだ。だから、あんまり人様の作品に、とやかく言ってはいけないよ」

「わ、わかっています。でも、つい気になってしまって。ここを直せば、もっと面白い作品になるのにと」

「あんたの悪いくせだね」

「ごもっともです……」


 蔦屋の指摘に、一九はうなだれた。

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