場所を変えて「書く」こと。あるいはあたらしい場所には、あたらしい書き手、読み手との出会いがあるという話

「文学フリマとか、出てみればいいのに」

 今年の5月終わりごろだったと思う。SNSに流れてきたそのエアリプは、わたしの中にスッと落ちた。

――そうか。わたしも、リアルなイベントに出てもいいんだ。


わたしは「物理的な本を作る」ことに、ほとんど興味がない。整理整頓が苦手なので、買うのも電子書籍が多い。自分の文章をまとめて読みたいと思ったこともない。コミティアなど即売会は、ブース前での緊張が苦手で、近年は来場者としてすらほとんど足を運んでいない。

したがって、リアルなイベントは縁遠いものだった。冒頭のひと言も、もし言われたのが別の場所、別のタイミングだったら、「ありがとうございます」と気持ちだけを受け取ったことだろう。


わたしが心を動かされたのはそれがSNSのひとつ、Misskey.designという場所で、そこに登録して1、2カ月が経っていたからだ。


わたしがMisskey.designに登録したのは、2023年4月初旬のことだった。詳しい説明を割愛するが、ここは絵、音楽、手芸、文章など、ジャンルを問わず「一次創作」をする人たちが集まる場所だ。タイムラインには、誰かが制作したものが次々と流れてくる。ときにはミームが生まれ、それに絵がついたり音楽がついたりの“創作遊び”に発展することもある。眺めているだけでも楽しい場所だ。


そして、この場所には存外、文章を読んでくれる人がいる。自身も文章を書いている人はもちろん、絵など別ジャンルを主戦場にする人も、文章を読んでくれる。一投稿3000文字まで投稿できるのも大きいと思うが、それだけでは説明がつかない、不思議な環境がある。


Misskeyが創作者にとってありがたいのは、多種多様な「リアクション絵文字」があることだ。「ココロにぐっとくる」「しみいる」「面白い」など、さまざまなニュアンスの感想を、タップ一回で送り合うことができる。感想を伝えるのは勇気がいることだが、絵文字なら手軽。そして、もらったほうは「作品をどう受け取ってもらえたか」が目に見える。「リアクション絵文字」を送ることで心理的ハードルが下がるのか、別投稿で文章での感想をもらえることも多い。自分自身、「絵文字じゃ足りない!」と思って投稿で伝えることもけっこうある。


そういった環境で、自分自身が長年ブログで書きためていた文章を「エッセイ」として流してみたところ、予想外に多くの人に読んでもらえた。何か莫大な「数」を想像されると困るので説明しておくと、数でいえばそれは、X(Twitter)のバズや、カクヨムの人気作とは比べるべくはないとは思う。Misskeyの一サーバーは、それに比べればずっとちいさな世界だから。しかし、感想や読まれた手ごたえというのは、数の問題ではない。カクヨムで書いている方なら、きっとご同意いただけるのではないか。


Misskeyのニュアンスが伝える絵文字はすなわち感想に近く、喜びは大きなものだった。自分が書いたエッセイに、これほど反応をもらったのははじめてだった。


ときどき、「丸毛さんのエッセイは……」と、感想を書いてくれる人もあった。「丸毛さんのエッセイ」。自分の名前が認識されている。作品を語るときに、名前を呼んでもらえる。それがくれるパワーはすさまじかった。


そういったポジティブな経験は、さまざまな認識や考え方を変えていった。


たとえば、8年(当時)続けていて、鳴かず飛ばずだと思っていたブログ。Misskeyでの投稿を続けるうち、「ひょっとしたらブログの読者や、反応をくれる方の何割かは、わたしの文章を楽しんでくれているのではないか」と考えるようになった。わたしがやっているのははてなブログなので、はてなスターやはてなブックマークで反応は送り合えるのだが、そのニュアンスまでは汲み取れないことが多い。X(Twitter)の「いいね」と同じようなものだ。初期に名指しではっきりと褒めてくれた人があり、それを心の支えにしてきたけれど、もう何人か、同じような気持ちで読んでくれている人もいるのではないか。


たとえば、SNSの投稿。それが日常のつぶやきであっても、告知であっても、いままではひとつひとつ、「反応がなかったらどうしよう」「やっぱりわたしのことなんて誰も見ていないよね」と反応を気にしていた。それが、「まず、やってみよう」に変わった。「反応がなくても凹まない」「凹むぐらいなら次のことを考える」。とにかく、やってみる。先に「うまくいく方法」を考えられるような頭はないのだから、考えるのはそれからだ。同じ理屈で、いわゆるSSを書き、投稿することにも抵抗がなくなった。


思えば、わたしがMisskey.designに登録したのは思いつきだった。Twitter(当時)で、人がすすめていたから。しかも、すすめられていたのは別の場所(サーバー。Misskeyにはいろんな場所があるのです)で、designサーバーに来たのは勘違いだった。でも、それがわたしの「書く」を、それにまつわるさまざまな意識を変えてくれた。


いままでだってそうだ。


まとまった文章を書きたくて、ブログをはじめた。ひとりとはいえ、はっきり褒めてくれるひとに出会えた。そこで書いたものは得難いストックで、一種の財産だ。また、ブログに書き残してきたから覚えていられた人生の機微が、たしかにある。Misskeyでエッセイを読んでもらえたのも、「書いたものが手元に『あった』」から。「なんでこんな誰も読まないものを書いてしまうんだろう」と思いつつ、コツコツ書きつづけてきてよかった。


コロナ禍にめちゃくちゃに書きなぐり、40万字を超えた物語は、わたしをカクヨムに連れてきてくれた。そこにあったのは「投稿サイトってやつに載せてたら、どうなるんだろう」という好奇心ぐらいだった。自分が書いた物語に感想をもらえる喜び、登場人物が応援される喜び。カクヨムに登録しなかったら、一生知らなかったかもしれない。今年の3月にはKACに参加することで、新たな作品を書くことができ、そうしたら新たな読者と出会えた。


あたらしい場所には、あたらしい出会いがある。あたらしい書き手、読み手との出会いがある。


冒頭の、「文学フリマとか、出てみればいいのに」がスッと自分の中に落ちたのは、そんな経緯があったからだった。いままではインターネット内で、さまざまな書き手や読者と出会うことができたのだ。じゃあリアルに飛び出てみたら、どうなる?


結果としては、「文学フリマ」という場がなければ出会えなかった出会いもたしかにあった、と思う。ただ、用意した本の数が不足する不手際もあって(完売はとてもありがたかったです)、「もっと出会えたはず」との思いはぬぐいきれない。なにより、こういったことは時間が経たないと効果がわからないものだ。

とはいえ、Misskeyで交流のある方はもちろん、ブログ読者の方もブースに遊びに来てくれて、「ネットで培ったものがあってよかった」と思えた場でもあった。何より、「書いたから読んで!」「おもしろいものを読みたい!」と書き手と読み手の熱気渦巻く場は刺激的だったし、「文学フリマ」タグで互いに興味を持った作者の方々の本を求め合うのは楽しかった。


と、ここまでは自分の体験を書いた。この体験から言いたいのは、「もっと読まれたい」と思ったとき、発表の場をかえてみる、新たな場を試してみるのは有効かもしれない、ということだ。わたしは「めちゃくちゃ読まれて数字がすごいです!」「売れてます!」みたいな書き手ではないので、説得力はないかもしれないが。

そして、「腐らず書きつづけることの大切さ」だ。書いてさえいれば、文章が残る。文章があれば、どこかに投げることができる。書いてさえいれば、その発表方法を考えるうち、新たな場にたどりつける。新たな場では、新たな人に出会える。


この先のことは、何ひとつわからない。

それでも自分が動き、経験したことで、得たものがある。それが見せてくれる灯火を追って、これからもヨロヨロのろのろと進んでいこうと思う。

今日も明日も書く。ただそれだけを重ねていこうと思う。

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