自分の文章が下手過ぎて笑っちゃった話からの、結局、上手い文章とは何かって話
2021年12月末に、別所にアップした文章です。
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とにかく書く。いろいろ書いてみる。思い浮かんだら、断片でもいいから、形にしてみる。
ここにつづってているような雑文も、物語の断片になるかもしれない(ならないかもしれない)文章も、なんでも書いてみる。仕事ではさんざん書いてはいるけれど、私的な文章について、自分なりに「書く」フットワークが軽くなったのは、ここ2年ぐらいのこと。
きっかけははっきりしている。
創作メモを読み返していたら、主人公が熊と対峙するシーンに、「身の丈2メートルはある! 大きい!」と書いてあったことだ。
「ええええ、そのままやん……」
思わずお国言葉が飛び出した。中学時代に書いたものではない。ここ3年以内、いい大人になってからのもの。しかも、メモとはいえ、緊迫したシーンの描写として真剣に書かれたものだった。あぜんとしたのち、思わずゲラゲラ笑ってしまった。
「むっちゃ下手くそやん!」
なーんだ、ぜんぜん下手だ。あまりのダメさに笑う。そんなこともあるのだ。
それ以来、なんであれ、書くことが楽しくなった。
どうせ下手なのだ。
書かないでどうする。
下手さを見つめないでどうする。
書いたところで、この下手さはどうこうできないかもしれない。
が、書かないままでいて、突如として「文才」なるものが芽生えることは、絶対にない。
「もうちょっと上手くなってから」「いつか」と言っている時間は、もうない。
「仕事以外には書かない」と決めるなら辞めてもいいが、どうせ書いてしまうのだ。
せいぜい精進したまえよ、ハハハ。
もちろん、書くだけではなく、自分なりの文章修行やインプットは必要だ。漫然と書いているだけでは、上手くならない。ただ、「書く」は上達の必要条件だ。
「書く」フットワークを軽くすると、頭の中にあるモヤッとしたものを、モヤッとしたまま外に出すことになる。これは、けっこうストレスを感じるものだ。その点では、
「とりあえず書いてみる」
「上手くまとまらないときはとにかく手を動かす。『書こうと思っていること』を箇条書きにする」
「箇条書きにした要素を読み返してみる」
「資料を読み返してみる」
など、仕事のライティングで慣れ親しんだ行動が役に立ってくれている。
そうやって頭から出したものを読みながら、うっすらと絶望する。文章で大事なのは、究極的には「何が書いてあるか」だからだ。「身の丈2メートル超の熊と向き合った主人公がもらす、驚きのことば」をもっと上手く書けたとしても、その物語が人の感情を揺り動かさなければ、意味がない。
ライターを20年近くやってきて感じるのは、文章の上手い、下手を規定するのは、パッケージとしての「文章の上手さ」ではない、ということだ。大切なのは、そこに含まれる情報量で、それ以上のものはない。
取材が足りないリポート記事は、読むに値しない。
思考が浅い論評は、新たな視点を示すことがない。
想像できない心情は、書くことができない。
それらを隠すことができる「表向きの文章の上手さ」は存在しない。
まあ、フィクションを書く場合は、手を動かしたら「作者が思ってもみなかった心情がわかる」「キャラクターが思わぬ行動をする」こともあるが、それも起点となる想像があってこそ。無から有は生まれない。
逆に言えば、
感動的な物語が提示できていれば、
心情や情景がつぶさに想像できていれば、
取材によりじゅうぶんな情報が得られていれば、
深い思考ができていれば、
多少の文の巧拙など問題ではない。中身の充実は、必ず「外身」である文章も整えてくれる。
わたしが「身の丈2メートルはある! 大きい!」にゲラゲラ笑ってしまったのは、はっきり言ってしまえば、浅く、つまらないからだ。主人公の驚きを、場の緊迫感を想像できていないことが、その一文から伝わってきたのだ。それらが伝わってきさえすれば、表現は「大きい!」でもなんでもいい。「稚拙だな」とは思っても、笑いはしなかっただろう。もちろん、表現が巧みであるに越したことはないのだが。
文章で、フィクションは書ける。でも、意外と嘘はつけない。書けば必ず、思考の浅さ深さ、情報の多さ少なさが白日のもとにさらされる。その意味では、書くこととは、内面を見つめることだ。そしてそれを他者に見せる(届ける)のは、広義のコミュニケーションだ。文章を書いていれば必ず、内面との向き合い方、他者との向き合い方が問われる局面がある。
浅い、ちいさい、つまらない。
情報量が足りない。
他者に対して閉じていて、開き方がわからない。
こんなに長年やっているのに?
書けば書くほど、げんなりする。と、同時に気楽にもなる。
「こんなに下手なのに、手を止めちゃうの?」
当たって砕けろ。残された時間は短いけれど。
そんなことを考えていると、あるインタビューを思い出す。在学中から多くの人が憧れる職業につき、第一線で活躍するその人は言った。
「学校を卒業するとき、いまの仕事を目指すのをやめて、就職も考えました」
わたしは不思議だった。その人のキャリアを振り返ると、学校を卒業する年齢には、すでに頭角を現しているように思えたからだ。尋ねると、こう返ってきた。
「今の仕事はぜんぜん上手くできなくて、落ち込むことばかりでした。就職を考えたのは、きっと、努力しないで、なんとなく上手くできる自分のままでいたかったんでしょうね」
「努力しないで、なんとなく上手くできる自分でいたい」。ああ、わかる。才気あふれ、努力を惜しまぬその人とわたしは違うけれど。でも、わかる。挑戦しなければ、ずっと「努力しないで、なんとなく上手くできる自分」でいられるのだ。書かないうちは、なんとなくいつか上手く書けるような気がしていた。それは、幻なのだけど。
書くことや夢を叶えることに限らず、何かを得たいと思ったら、いつかはその幻から抜け出さねばならない。世間の同年代の人は、とっくにそこから抜け出しているのだろう。
ずいぶん遅い目覚めだけれど、わたしはわたしのままやるしかない。わたしはわたし以外のものにはなれない。この年齢になれば、その「わたし」を育てのも、また「わたし」であることもわかっている。いままで培ったものも総動員して、凡人には凡人の戦いを。
そんなことを考えながら、ここカクヨムで、ブログで、小説やエッセイをつづっている。
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