第3話(後編)

「何してたの」


 頭上から聞いたことのある声が聞こえて私は勢いよく顔を上にあげる。塀の上で暗闇に佇む黒い猫の姿があった。


「ね、猫が……喋った」

「忘れたの? 俺ら猫だって言ったはずだけど」

「それ、冗談じゃなかったの」


 私はどうやら腰を抜かしてしまったようで肩の力を脱いてその塀に体を預ける。

 スマホはなくなるわ、死にそうになるわ、猫は喋るわ。これも、また夢の延長線なんだろうか。なんだか、すごく盛大な夢だなぁ。


「これ、落としたでしょ」


 猫がそう言ったので私はまた上を見る。すると、顔に固いものが落ちてきた。

 痛さに鼻を擦りながら下を見ると、そこにはずっと探していた四角い物体があった。

 私のスマホだ。


「すごい! どこにあったの? それより、見つけてくれたのね、ありがとう」


 私はスマホをまた落とすまいと腕の中に閉じ込めながら猫にお礼を言う。


「……まあ、別に」


 猫は小さな声でそう呟くと私の膝元に跳び移った。見事な着地だ。これは本物の猫である。


「帰れる?」

「私は帰るけど、あそこは貴方たちの家じゃない」

「貴方がいる所が、俺らの家だ」

「……頭痛いわ」


 私は電柱を支えに何とか立ち上がった。キッパリと言い切った黒猫は私の目の前を歩いていく。たまに私の方を振り向いて存在を確認する。私の家なんだから同じ道通って帰るわよ。


 これからどうしようとか、そんなことを考えながら無言で家に戻る。この子たちは、一体どうするのが最適解なんだろうか。


 家に戻った後もしばらく何も言えずにソファに体を預けていた。私はすぐ右隣で丸まっている黒猫の背をつんつんと触る。びくりともしない。


「ねえ、人間の姿になってみてよ」

「今?」


 私の言葉に反応して黒猫は顔だけ私の方に向ける。こうして顔よく見てみると可愛いなぁ。

 ……猫だから可愛いのよ。猫が、可愛いの。


「そう、今。自分を猫でありあの男だって言うなら今目の前で証明してみせて。そしたら信じてあげなくもないから」

「いいけど、今やって本当にいいの?」

「どうしてそんなこと聞くの」

「人間の姿になったら、裸だから」


 私は凍ったように体が固まった。都合よく服はついてこないんだ。そりゃ、確認とってくれて助かった。


「じゃ、じゃあタオル。大きいタオル持ってくるからそれ持ってやって」

「ん」


 私は急いでお風呂場に向かうと、棚から家にあるタオルの中で一番大きい白いバスタオルを取り出した。これなら男の人サイズになっても全部隠れるだろう。

 これを黒猫に持ってもらって変身してもらう。これで、あんたたちが相当な虚言癖か私が相当やばいストレスを抱えてるかが分かるのよ。


 私は少し夢を見る少女のようにドキドキしながら黒猫を見つめる。黒猫は私から少し視線を外して息を吐く。

 口を大きく広げて小さくて鋭い牙を見せる。それを思いっきり右腕に突き刺す。私は驚いて思わず手を伸ばしたが、引っ込めた。儀式に供え物とか生贄が必要なように、これも必要な工程なのかもしれない。私が、口出すようなことではない。


 そのままただ黙ってじっと黒猫を見つめた。

 右腕から流れる一筋の血をぺろりと舐める。それが痛むのか、黒猫が目を力強く瞑った。

 それから一秒も経たずにその体の形はだんだんと大きくなる。タオルを持つ手から指が出てくる。頭の上にある耳が消える。全身の黒い毛が消えて顔の形やらがしっかりとしてくる。

 今、私の目の前には今朝見た黒い青年がいた。


 なんだか神聖な、とんでもないものを見たような気になって私は唾を飲んだ。猫が人間になるなんて、漫画でのみ見れるものだと思っていた。

 某崖の上の映画の子の変身を見た気分。


「これで、満足?」


 少し荒い息を吐きながら問うタオル一枚の裸の青年。なんだかいけないことをしている気分になるからちょっとやめて欲しい。

 私は何も言えずにぎこちなく首を縦に一度だけ動かす。青年はぐい、と私に近づいてきた。長いまつ毛に隠れるグレーの透き通るような瞳に私が映っている。


うぶだねぇ」

「なっ……!」


 馬鹿にするように青年はころころと笑う。恥ずかしさと怒りで私は穴に入りたくなった。


「わ、私だって男女の経験はそれなりにありますし!」

「それってほっぺたにちゅーくらいでしょ?」

「ど、どうして知って──」

「ご主人様のことなら、なんでも分かるから」


 鼻と鼻が触れ合う近さで囁かれる。

 どんな羞恥プレイだ! と私の心臓は大爆発。

 今度は楽しそうに笑いながら私から距離を置いた。そして、椅子に座りながら私たちの様子を見ていたらしい白い青年の元に向かう。


「で、ご主人様はこんな俺たちを外に追い出すの?」


 黒い青年はともかく、白い青年もなんだかにこにことしている。これは、もしかして私は猫の策略にしてやられたのでは、と思う。

 もう何がなんだか分からない。ここで追い出したら私の良心は痛むし、もう本当によく分からない。


 私はソファを両手で力強く叩いて立ち上がる。そして二人を指さして酔っ払った勢いで言うように言った。


「この家に住むのを許す。だけど、過干渉は許さないからね」


 私の言葉に二人は顔を見合せて満足したように、そしてどこか腹黒い笑みを浮かべたのだった。


 ──私はまさか明日からこんなにも変わるだなんて思わなかった。猫とは、恐ろしいものだ。

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