第3話(前編)

 結局私が向かった先は会社。家に帰ろうかと何度も考えた。だけど、こうして会社に行くことが最善だと思ったのだ。


「先輩、昨日何かありました?」

「……どうして?」

「いつもの元気がないですもん。部長なら許してくれますし、ほら、猫動画でも見て癒されてください」


 そう隣の真香ちゃんが自分のスマホを私の目の前に出す。そこには小さな茶色の子猫が戯れる癒し動画が映されていた。だが、どうにも癒されない。この猫もご主人様探しましたと言ったりするのだろうか。


「ねえ、猫って人間になったりする?」

「……昨日何があったんですか」


 真香ちゃんは若干引きながらスマホを回収する。さらに真剣な顔つきで病院を調べてくれている。やはり私はこの現代社会のストレスで、ついに幻覚症状を引き起こしているのか。


「あ、ぶちょー。聞いてくださいよ、結衣先輩が変なんです」

「如月が?」

「突然、黄昏ながら猫って人間になったりするかって聞いてきたんです。やばいですよ」


 偶然私たちのデスクの傍を歩いていた部長を真香ちゃんが捕まえて私のやばさを共感してもらおうと声をかける。よりによって部長に。最悪だ。

 真香ちゃん許すまじ。


「如月、昨日のがそんなに重荷なら断ってくれたって良かったんだぞ」

「い、いえ! それとは全くの別問題のことですのでお気になさらず」


 私は声を上げて拒否する。これで一世一代のチャンスを逃してはいよいよあの二人……二匹? を恨むことになる。

 部長は戸惑いながらも頷いてくれた。


「何かあれば気軽に相談しろよ」

「あ、ありがとうございます」


 部長はそのまま自分のデスクの方に向かって歩いていった。普通に考えてやばいやつが目の前にいるというのに全く気にしない。何にせよ、そのスルースキルに助けられた。

 私が安心して息を吐き、チャンスが逃げなかったことに安心してデスクに顔を埋める。隣の真香ちゃんはうっとりと手を頬にあてて何度か首を横に振っていた。


「一ノ瀬部長、かっこいいですねぇ。あれで独身ですよ。どうしてでしょう」

「……さあね。話さないだけでいるんじゃない?」

「先輩の割に面白い冗談ですね。今すぐ屋上から飛び降りましょうか」


 急に真顔になってぼそぼそと呟く真香ちゃん。本当にそんなことをやりかねないオーラを出しているので、私は落ち着かせるために肩を叩く。


 真香ちゃんは一ノ瀬部長のリアコらしい。部長のために仕事をして、頑張って成績を伸ばしているんだとか。何がなんであれ頑張れるモチベがあるのはいいこと、だと思う。本人に迷惑さえかけなければ。

 リアコだから相手に彼女がいると鬱に陥ってしまう。真香ちゃんのためにも、今後できるであろう部長の彼女さんのためにも彼女ができたと公言するのは控えて欲しい。可哀想な話ではあるけれど。


「ともかく、もし本気で猫が人間になるのか悩んでるのであれば病院行くことをおすすめしますよ。馬鹿にしてるとかじゃなくて、普通に心配です」

「うーん、やっぱりそうよね。うーん」


 唸り声をあげながら今日もパソコンとにらめっこ。

 プロジェクトの方も進めなきゃいけないし、溜まってる仕事も片づけないといけないし。


 とある有名なファッションデザイナーとイラストレーターと化粧品メーカーとのコラボ。この企画を担当し、運営していくのが今回私の任された仕事。

 大まかなテーマはZ世代に向けたものらしい。韓国や中国コスメが若者で大ヒットする今、日本ならではの物も取り入れつつ若者に刺さるコスメを作りたいというものだった。

 確かに、私の高校生の従妹が誕生日プレゼントに某韓国コスメブランドのアイシャドウパレットとリップを要求してきた。だからといって日本製品を買わない、というわけではないというのは分かっている。売上が異常に落ちているわけでもない。

 ただ純粋に若者たちに手に取ってもらいやすい何かを作り出したいというクリエーターたちの思い。


 私は企画案にあることをメモした。


「余計なことはしない、ですか?」


 私の手元を覗き込んできた真香ちゃんがメモに書かれたことを読み上げる。


「ああ、うん。この人たちがしたいのは、若者が手に取りやすいコスメでしょ? 売上や知名度、あわよくば……とか何も考えないで、今の売上のプラスになればいいなくらいの方が上手くいったりするんだよ。ほら、欲があったら結局何も手に入らなかったーみたいな」

「二兎追うものは一兎も得ず、ですね」

「それそれ。でも私ももう二十代後半ですし、若者が何が好きか詳しく知らないから視察してみたりしようかなって。まだこれの打ち合わせには時間があるし」

「私もお手伝いしますよ。隙間時間に調べたりできますから」


 小さくガッツポーズをしてみせる真香ちゃん。な、なんていい子なの!

 私は感動してその手を力強く掴んで縦に振る。私は心強く優しい素晴らしい後輩を持ったものだ。幸せ。


 定時に帰りたいを目標に掲げて仕事する私。もちろん今日も残業。

 残業といっても仕事が終わらなかったのではなく、細かな作業だったり明日に持ち越したくないものを片づけている。一度集中してしまうとなかなかスイッチを切れない。めんどくさい集中スイッチを持っていることで家族内では有名だった。


「……十九時か。そろそろ帰ろうかな」


 隣の真香ちゃんはしごでき女なのでもちろん定時帰り。まだ残ってる人たちに軽く挨拶して会社を出た。

 あの二人に十九時には帰ると言ってあるから、まあもちろん家にはもういないだろう。これでいたら本当に通報してやるからな。

 そう意気込んで会社員だらけの電車に乗り込んだ。


 都内の住宅街。どこの家からも美味しそうな温かな匂いがして、仕事疲れによる空腹を刺激している。


「相変わらず何度見ても立派な家」


 私は自分の家であるマンションを見上げてため息を吐く。こんなマンションに住む私が埼玉のどこにあるのか分からない市から来た田舎民と知ったら、きっと全員から鼻で笑われる。埼玉県民で誇れることは何か。

 無論、誇れることなどない。まだ川越とか秩父は観光地だし、さいたまとか川口は都会だから胸張れる。

 それ以外の市はもはやないに等しいのよ。


 自分で言っておいて自分で悲しくなる。虚しい。住む部屋がある階のボタンを押してエレベーターに乗る。何の素材を使っているのか、詳しくないから知らないけどこの黒くてつるつるとした壁の素材はなんだろう。何か汚れをつけて弁償とかなった時に、私は何万円払わなければいけないのだろう。

 身震いしながら丁寧にエレベーターを降りる。部屋の前にある黒いタッチパネルに暗証番号を入れて鍵を開ける。


「ただいま」


 誰もいない家にまた言う。お母さんと約束したことだ。必ず家に挨拶するように、と。


「おかえりなさい」


 パンプスを脱いでストッキングのせいでつるつると滑る床をすり足で歩きながらリビングへ向かっている途中。家から聞こえてくるはずもない声が聞こえる。


「な、なんでまだいるの!?」

「なんでって、ここが家ですから」

「帰れって言ったわよね。もういい、警察呼ぶから」


 私は半分信じられない気持ちになりながらカバンに手をつっこむ。


「あれ、ない」


 おかしい。生活必需品のスマホがない。

 確かに電車の中で触っていた。改札を出てポケットにしまって。車通りの少ない道に来たときにスマホを出した。だから帰り道までは持っていた。エレベーターにいた時は? 壁のことを考えてスマホを触っていない。


「ま、まさか落とした……?」


 私は全身に寒気が行き渡る。大変だ、あの中には個人情報、財産、その他諸々が入っているというのに。


 急いで適当なスニーカーを履いて家の外に出る。まだ間に合うはずだ。来た道を通れば、絶対にある。

 全速力で走りながら左右をしっかり確かめながら探す。懐中電灯でも持ってくれば良かった。街灯の明かりだけでは探すのは一苦労だった。


「危ない!」


 すっかりスマホのことに夢中になって道ばかりを見ていて前を見ていなかった私。その叫ぶような声に驚いて顔を上げると、この細い道を走っていた車が目の前までやってきていたのだ。

 車も近づいてやっと私の存在に気がついたのか、このままでは急ブレーキでも間に合わないだろう。


 ああ、ぶつかる。

 これまた私が百悪いのに、車の責任になってしまうのか。ごめんなさい、運転手さん。ごめんなさい、お母さんお父さん。

 とりあえず謝っていると強い力で引かれて私は電柱の後ろの方の壁に打ちつけられた。

 車は私の目の前を通り過ぎていく。何が起きたか分からず瞬きを繰り返した。

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