第1話

 それなりに名のある大学を卒業して、それなりに名のある会社に入社して。それなりにエリートの道を歩いてきた。だけどそれはまるでレール通りに走る列車のようで。この先の未来も何となく想像できてしまうから人生はつまらない。ギャンブルでも初めて一攫千金を狙った方がまだ人の命を感じていられそうだ。

 何の楽しみもない。始めてみた読書も買った五冊の本のうち一冊だって読み終えてない。ゲームもだめ。最近流行りのゲーム機とソフトを買ったが、チュートリアルから進んでいない。オシャレもだめ。トレンドなんてどうせ二ヶ月もしたら終わる。メイクも分からないし、髪も分からない。そもそも会社に適しているのは一つ束ね。それしか勝たん、ってやつ。


 趣味もなければ特技もない。近年の日本教育が生み出した無個性ってやつ。飛び抜けたものもない、真っ平らな普通の人間。小学生の時の自分がピークだったのだろう。あの時が一番、輝いていた。

 どこで道を間違えたのだろう。いや、間違えたんじゃない。たくさんの分岐を捨て、同じように揃えられてしまったんだ。

 そうに、違いない。賢いが正義。名を出して恥ずかしくないように。それが、最低ラインだと。


 そんな二十代の人間が考えることではないことを考えながらパソコンとにらめっこ。

 私がどうしてこの会社に入りたかったのかというと、楽に入れる会社よりずっとホワイトだからだ。パワハラ被害もなく、ずっと働ける会社。アットホームなんて望んでないから、細々と病まずに続けられる所が良くてここを志望した。もちろん面接でこんなこと言ってないが、本音はこれ。ぶっちゃけ、それが働く上で一番重要なのではないだろうか。

 化粧品とか美容関連の仕事で、私には不向きかと思ったが、逆にそれが良かった。興味のないことだからこそ勉強にもなるし、期待はずれなんてことがなくて苦にならない。


結衣ゆい先輩、おはようございます」


 そう隣のデスクから挨拶してきたのは後輩の本田ほんだ真香まなかちゃん。私にできた初めての後輩で以来仲良くしてくれてる可愛い子。

 派手髪が許される会社であり、他の会社に出向くような部署でもないのでガッツリ緑色に髪を染めている。ほわほわとした性格の子だがはっきりと物を言える。男にも女にも好かれる究極の人間だ。


 この会社は男女比率がそこまで傾いていない。営業となると男性の方が多かったりするが、ここは逆に女性が多いかなくらい。

 女が多いと女は強くなる。女が強くなる場所はとても危険だ。女は怖い生き物。強力な味方が必要になる。

 私は生憎、強い性格を持っていない陰の人間なので完全に出遅れた。同僚と強い絆で結ばれることはなく一人で黙々と仕事をしてしまった結果、「氷の女」と異名がついてしまった。そんな噂を気にせず、話し続けてくれたのが真香ちゃんだけだった。

 真香ちゃんのお陰で、時間はかかったが離れていた同僚たちとの距離も縮まり、今では私の変な異名は氷のように溶けて消えた。


 真香ちゃんもその可愛さ故か、あまり女子が仲良くしたがらないということで、私たちはなぜか煙たがれる同盟を組んで仲良くしているというわけだ。


「真香ちゃん、おはよう」

「朝早いですね。何か予定でも?」

「うーん、予定って感じじゃないんだけど、急用っていうか」

「予定じゃない急用? もう、変なことには首突っ込まないでくださいよぅ」


 口を尖らせて真香ちゃんはパソコンを起動する。ジャケットを背もたれにかけてシャツを腕まくりした。


 最近は温暖化のせいか夏でなくても暑い。そろそ憎き夏が来るから私はそろそろ死ぬのではないかと思っている。毎年、危険な暑さと知らせる天気予報士を何回恨んだことか。

 危険な暑さなら会社に行くのも制限してくれないだろうか。国のお偉い方、お願いします。


「真香ちゃんの実家で猫飼ってるって言ってたよね。猫って、急に飼っても大丈夫なやつ?」

「先輩遂に猫飼うんですか? んーそうですねぇ、猫ちゃんに限らず動物を買う前は準備をちゃんとして、いつ迎えても大丈夫だという状況にするのが何より大事と思いますよ」

「……そうだよねぇ」


 大きなため息を吐きながらエンターキーを押す。力ない音がオフィスに響いた。


「捨て猫、って言っていいのか分からないけど、ダンボールに入った二匹の猫が家の外にいてね。とりあえず預かって寝床と簡易トイレと餌だけ用意して家出たんだけど、心配で」

「捨て猫ですか、最近増えてますね。もしご自宅で買えないのであれば、保健所とかに相談してみるのもアリかもですよ。保護猫として預かってもらった方がひとまずは安全でしょうしね」


 私は真香ちゃんの言葉を聞いて、唸るような声を漏らしながら文字を打ち続ける。


 ずっと欲しかった猫。だが、致命的なことが一つある。私が猫アレルギーだということ。朝の少しの時間は何もなかったがずっと一緒にいたら、被害があるかもしれない。だから、私は飼えない。やはり保護してもらおうか。

 そう、考えるがどうしてもそうしようと踏ん張れない。なんだか、猫の瞳が異様に気になってしまったのだ。その目が、顔が忘れられない。


「考えるのはやめだ。ラーメンが食べたい」

「ラーメンいいですねぇ。そういえば家の近くに新しい味噌ラーメンのお店ができたんですよ」

「味噌かぁ。いいよね、味噌。あのコクが堪らなくて。濃厚なのもさっぱりしたのも美味しいから罪だよ」

「ちなみにそこのはこってり味噌らしいですよ。どろどろとした味噌スープが絶品なんだとか」


 さっき家で朝ご飯を食べたはずなのに、言葉が脳を刺激してお腹が減ってくる。想像が安易にできる。頭の上でこってりとした一杯の味噌ラーメンが目の前に。湯気が勢いよく立ち上り、火傷しそうなほど熱そう。でもゴクリと最初の一杯。

 ああ、だめだ。ラーメン食べたすぎてつい想像でラーメンを食べてしまう。美味しそう。


「今度一緒に行きましょう。会社からそう遠くないので」

「嬉しい、一緒に行こうね。今日の仕事も頑張れそう」

「やっぱり日本人を救うのはラーメンと猫ですね」

「誇るべき二大トップね」


 私と真香ちゃんは小さく笑い合うとお互い目の前のパソコンと向き合った。ブルーライトカットメガネの奥にあるパソコンの画面が少しだけ穏やかに見えた。


 時が経ち、夕方。もう少しで定時。


如月きさらぎ、少しいいか」


 向こうの方で部長が私の名前を呼ぶ声がして返事と共に立ち上がって部長の元に駆け足で向かう。

 いちの部長。三十二歳という若さで部長の座に就いた天才。背も高く顔も整って他部署からの人気も絶大。だが、感情の起伏が乏しく、会話もほとんどないのでどんな人間かさっぱり分からない謎の男。酒が異常に強いイメージはある。若いけれど頼れる存在で、密かに憧れている。


「次のプロジェクトをお前に任せたい。大きい仕事だ。俺もサポートに回るから緊張せずに頑張って欲しい」


 部長はそう言いながら少し分厚めの紙の束を渡す。

 小さなプロジェクトだったり共同で大きめの仕事を行ったことは過去に何度かあるが、一人で大きなことをやるのは初めてだ。冷や汗がつうと背中を通った。


 若くして部長となった優秀な彼が支えてくれるなら心配ないが、失敗したらとんでもないことになる。そのプレッシャーからか手が微かに震えた。

 どうしてよりによってこんな暗くて個性のない普通の、平凡の私なんだろうか。陽キャのしごできさんたちに任せればいいのに。


「ふむ、大きい仕事とはいえ、いつも通りこなせば良いだけだ。ただ規模が大きくなっただけ。お前ならできる。俺はお前をそう信じて任せるんだ」

「部長……」


 私はその部長の言葉にいつの間にか下に向いていた顔を上げた。その言葉が背中を優しくさすってくれた気がして私は頷いた。いつかはやらなければいけないことだ。このチャンスをものにしなくては。

 私は大きく頷いて紙束を強く握りしめた。


「頑張ります!」


 仏頂面の部長が少しだけ微笑んだ気がした。


 時は定時過ぎ。朝よりかマシな電車内。椅子に座りながらラーメンと猫と仕事のことを交互に考える。

 疲れていると何を最重要事項として考えるべきか分からなくなってくる。

 ラーメンのことなんて考える必要がないのに、とりあえずあの味噌ラーメンが気になって仕方ない。あとお気に入りのつけ麺屋にも行きたい。ラーメンが食べたい。でも今日は早く家に帰らなければいけない。外食なんてもってのほか。強い意志を持って今日は帰り路を歩かなくてはいけないだろう。


 猫はいつ保護してもらおう。まずは電話をすべきか。今日は遅くてもう対応していないから、明日昼休憩の時に連絡しよう。忘れないよう、携帯にメモをしなくては。

 そんなことを考えながらとぼとぼ歩いているといつの間にか住んでいるマンションの前だった。

 そういえば、このマンションってペットがいても大丈夫だったかと一瞬過ぎったが、隣のお家がわんこを飼ってるから多分大丈夫だろう。一応、今度管理人さんに聞いてみよう。


 無駄に綺麗で広いエントランスの先にあるスタイリッシュな黒いエレベーターのボタンを押す。

 大学卒業後にこのマンションに引っ越してしまったが、少し失敗してしまったかもしれない。

 広々とした部屋。リビング、ベッドルーム、バスルーム、キッチン。トイレと風呂が別なのも良い。クローゼットなども完備。その他諸々揃っていて、シックな感じのする某都内に住むおしゃれ女子が憧れるような家。

 だが、この部屋はそんな高級感に傷をつけるほどのありえない家賃の安さを誇る。それなりにはするけれども、こんなタワマン風の部屋にしては安すぎる。事故物件だったりするのだろうか。そう考えると身震い。不動産屋さん、事故物件だって言ってたっけ。うーん、覚えてない。ちゃんと私は内見しに来たのだろうか。


 しかし残念なことに、こんな高級感溢れるマンションに住む私の部屋は最低なゴミ屋敷だ。ゴミを捨てるのに間に合わず、分別したゴミ袋がせっかくの床を埋める。ゴミ山の壁がベッドルームまでの道を邪魔しているので、リビングのゴミ袋ベッドで眠る。風呂場だけは清潔にしているので多分大丈夫。

 ……何が大丈夫なのだろう。


「ただいま」


 誰もいない部屋に向かって言う。部屋の明かりをつけてジャケットを脱いで何も置いていないシンクで手を洗ってゴミの道をつま先立ちで歩いていく。猫たちを置いたリビングに向かうのだ。生きてくれているだろうか。

 そもそも、なんでベランダにいたのだろう。考えると急にホラー展開が想像されて私は身震いする。

 もしかして、侵入された?


「いやいや、ないでしょ。こんなゴミ屋敷に」


 私はその場にしゃがんで猫を呼んでみる。当たり前だが返事はない。ダンボールを確認すると、そこに二匹の姿はなかった。私は恐怖に囚われる。

 ここは五階だ。猫であっても、さすがに無事ではいられない。

 もしかして、私は殺人犯ならぬ殺猫犯になってしまうのではないだろうか。そうなってしまえば全日本人に恨まれかねない。早急に生きた状態で見つけなければ。


 私はあちこちを探す。ゴミ袋の下にもいない。隣の部屋にも風呂場にも洗面所にもどこにも。一体、どこへ消えてしまったのだろうか。


 不安に駆られてゴミ袋を投げながら探す。

 すると、なぜか玄関の方から声が聞こえる。ついに私の命も終わりか。


「あれ、明かりが」

「ご主人様、ご主人様……っ!」


 私は突然の夢のような出来事に気を失った。

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