第32話Verbena
病院の入口で奈緒と別れた俺は、走り去っていく彼女のチェイサーを見送ると病院内へと入った。エレベーターで目的の階に向かい、面会表を書いてICUへと入る。
「清水、来たぞ」
「あっ、先輩。なんか今日はいつもと違う匂いがするっスね」
やはり女の勘は侮れない。奈緒の家でシャワーを浴びた際、普段とは違うシャンプーを使ったのだ。
「手術の時間は決まったのか?」
「前の手術が何時に終わるか分からないから、正確には決まってないらしいっス」
そんな会話をしていると見慣れない医師がやってきて、俺を別室へと案内した。そこで俺は手術や麻酔に関する説明を受け、書類にサインをした。本来なら親族がするべき事なのだか、連絡先が分からない以上俺に署名させるしかないようだ。手術は早くても17時すぎ、前の手術次第ではそれよりも遅くなる可能性があるらしい。
「⋯先輩、何から何までありがとうございます」
「気にすんな、また夕方に来るよ」
「了解っス」
面会時間が終わり、俺は手術が長引いた時のことを考え、一旦家に帰って着替えや食事を済ませる事にした。電車の時間にもよるが四時間あれば十分行って帰ってこれるはずだ。
そうして自宅で簡単な食事と着替えを済ませた俺は、17時前に再び病院へと戻ってきた。病院の正面玄関は19時に閉まる、おそらく手術はそれよりも遅くまでかかると判断し、裏の救急入口で入館証を貰って病院へと入った。
「⋯先輩、ちゃんと寝てますか?」
「ああ、仮眠は取ってるよ。それより、やっぱり手術は怖いか?」
「そうっスね、やっぱり怖いっス」
凛華はそう言って力なく笑った。笑うと肋骨に響くのか、少し表情が苦しそうに変わる。
「⋯でも変な話っスよね」
「なにがだ?」
「ボクは死のうと思って事故を起こしたのに、注射とか手術が怖いなんて変じゃないっスか?」
「あはは、確かにそうかもな。死ぬ事より怖い事なんて思い付かないよな普通」
俺は死について真剣に考えた事はない。だけど自ら命を絶つ行為以上に怖い事なんて、この世界にはないと思った。手術前だからか食事は運ばれてこず、凛華は「喉が渇いた」としきりに訴えているが、水分も制限されているらしく、口を湿らせる程度の水しか与えられなかった。
「⋯こんな時に、こんな事言ったら先輩怒るかもしれないっスけど」
「怒らねーから言ってみろよ」
「ボクは、今すごく幸せなんです。毎日こうやって先輩に会えて、入院する前よりも沢山話が出来て、ボクは嬉しいっス」
「そっか、それなら良かったよ。退院してからもよ、今まで以上に色んな所に行ったり、いっぱい話そうな」
「⋯約束っスよ」
「ああ、約束だ」
そんな会話をしているうちに、時刻は19時を過ぎた。本来なら面会時間終了で帰らなければならないのだが、今日は手術なので特別に面会が延長されている。自分が手術を受ける訳でもないのに、次第に俺の心もドキドキとしてきた。凛華はきっと俺の何倍もドキドキしているのだろう、早く手術が始まってほしいような、まだ始まらないでほしいような、複雑な気持ちだった。
お互いに口数も少なくなってきた頃、仕切られていたカーテンが開き、数名の看護師が入ってきた。
「清水さん、手術の準備が出来ましたのでこれから手術室に移動します」
「⋯はい」
「お連れ様もドアの前まで一緒にどうぞ」
「⋯はい」
看護師が凛華のベッドを取り囲み、少し準備をした後、ゆっくりとベッドを押して歩き始めた。俺も後に続いて歩く。薄暗い廊下の先に、ドラマや映画でよく見る手術室の文字が見え、一度ベッドが止まった。
「何か一言、声をかけてあげてください」
急にそう言われ、俺は何を言えばいいか迷った。だがグズグズしていても仕方がないので、とりあえず励ますことにした。
「凛華、頑張れよ。終わるまで待ってるからよ」
「⋯先輩、ありがとうです。頑張ってきます」
凛華が言い終えると、看護師は再びベッドを押し、彼女は手術室の中へと消えていった。俺は残った看護師に案内され、家族待機室へと案内された。
家族待機室は面会用の待機室よりは広いものの、ソファとテーブル、数冊の雑誌があるのみで室内はしんと静まり返っていた。スマホを取り出してみるが、もちろん電波は入らない。俺は諦めて特に興味もない雑誌をパラパラと流し読みしていたが、それもすぐに飽きてしまい手持ち無沙汰になってしまった。出入り自体は自由なので、一度外に出て敷地外のバス停へと降り、煙草を取り出して火をつける。あの雨の日、楓花があらわれたバス停。今日はいくら待とうが彼女は現れなかった。
数本吸っては中に戻り、待機室で時計を見つめながら30分程待ち、再び煙草を吸いに下に降りる。そんな事を繰り返しているうちに、気が付けば時刻は23時を過ぎていた。俺は最後の一本を吸い終わると、再び待機室へと戻った。
「雨宮さん?」
ソファでうとうととしている所に急に声をかけられ、俺は一瞬驚いてしまった。
「あ、はい」
「清水さんの手術、もうすぐ終わりますのでそのままもう少しお待ちくださいね」
「分かりました」
その会話から30分程経過した頃、ようやく看護師が俺を呼びに来て、俺は再びICUへと入った。すぐにでも凛華の顔を見たかったが、まずは医者の説明が先らしい。ナースステーションの一角で手術を担当した若い医師の前に座り、レントゲン写真を見せられながら説明を受ける。何ヶ所か骨折の酷い箇所を、ボルトとプレートで留めたらしい。完治するまでは数ヶ月、骨がくっついてからはリハビリに入るそうだ。医師の話によれば、早ければ今週中に通常の病棟へと移れるらしい。
ようやく解放された俺は、看護師に案内されて凛華のベッドへと向かった。彼女は疲れて眠っているようで、俺が声をかけても反応は無かった。
「お疲れ様、また明日な」
眠る彼女にそう声をかけてから、俺は深夜の病院を後にした。
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