第28話Hydrangea
気がつけば夜空の雲は晴れ、風も止んでいる。風が止んだからか、蝉が鳴き始め辺りは一気に夏らしい雰囲気に包まれた。体感温度は確実に上がっているのに、俺の背筋には冷たい汗が流れていた。
「もう一度言おうか?雨宮くん、キミは馬鹿なのかな?」
歌恋は先程よりも少し圧を強めてそう言った。
「どういう意味だ?」
俺は何とか質問を返すが、その発言すら馬鹿げているといった様子で彼女は小さくため息をついた。
「キミにはさ、自分の意見とか、筋が全く無いわけ?」
「⋯いや、そんなことは」
「だったらなんでそんなにふわふわしとるん?ああ言われれば意見が変わって、こう言われればまた意見が変わって、結局ただ周りに流されとるだけなんじゃないん?」
歌恋は元々少し方言混じりの喋り方だったが、苛立つとより方言が出てくるようだ。彼女の言っていることは俺にとっては図星で、耳が痛かった。今の俺は誰も信じられず、かと言って誰も嫌いになれず、中途半端な立場を取っている。
「雨宮くんはさ」
「⋯なんだよ?」
「表向きは誰かを傷付けるのが嫌なのかもしれないけど、本心は違うんじゃろ?」
「⋯どう違うって言うんだよ」
「キミの本心は、誰にも嫌われたくない。ただそれだけなんよ」
彼女の言葉は見事に俺の心を表していて、俺は言い返す言葉も思い浮かばなかった。
「今これを言ったら嫌われるかもしれないとか、今これを言ったらその場の空気が悪くなるかもしれないとか、そうやって他人の顔色ばっか伺って。結果、キミが一番傷つかずに済む方向へ向かってばっか。そんな中途半端な気持ちでどうやって事件を解決するん?どうやって犯人をあぶりだすん?」
「俺は⋯」
「キミのそういう所が、死んだ兄に似てるんよ」
歌恋の声からは先程までの圧は無くなり、代わりに何かにすがる様な、どこか壊れそうで弱々しい声色に変わった。
「歌恋、お前の兄の死因って⋯」
「首吊り自殺じゃったんよ」
「⋯それなら奈緒が殺した事にはならねえだろ」
「私の兄はね、キミみたいに優しくて、悪く言えば八方美人で、だから相手がヤクザの娘だろうと普通に接して⋯」
彼女の声はだんだんと泣き声に変わっていく。
「そんなんじゃけぇ、周りからは松本奈緒と付き合ってるとか根も葉もない噂を流されて、それが原因でだんだん苛められるようになって⋯」
「それが原因で、自殺したんか?」
「それ以外に考えられる理由なんてないんじゃもん。兄が死んでから色々考えて、色々調べて、親は近寄りもしなかった兄の部屋に一人で入って、ようやく見付けた兄の遺書に⋯」
「⋯遺書に、なんだよ?」
「あの女への想いが書いてあったんよ。家族とか、私の事なんて何にも書いてないのに!ただ、あの女が学校に来なくなっただとか、あの女の事が好きだったとか!」
そこまで言うと、歌恋は顔を膝に埋めて泣き始めた。俺は彼女に対して「それはお前の逆恨みじゃないのか?」と言おうと一瞬思ったが、彼女に嫌われる事を恐れて結局言えなかった。そしてそれが、彼女が俺に言った言葉が正しかった事を証明していた。俺は、他人に嫌われる事を極端に恐れている。だけどそれだけじゃない、それ以外にも色んな感情があると伝えたくて、でもそれを言葉にする方法を知らない俺は、あの日と同じように彼女を後ろから抱きしめる事しか出来なかった。
「やめてぇや」
「嫌じゃ」
「なんで優しくするんよ⋯私の事なんか何も知らん癖に⋯」
「分からんから、何も知らんから、優しくするしかないんよ」
「そんなんアンタの自己満じゃけぇ⋯」
「別に自己満でもなんでもええ、目の前で泣いとる女がおったら優しくするんが俺じゃけん」
「⋯アホやろ」
「ほうじゃ、アホじゃ」
彼女の背中越しに伝わる温もり、微かに震える肩、その全てを受け止めてせめて一緒になって悲しんであげる、不器用で馬鹿な俺にはそれしか出来ない。
「⋯もう大丈夫、落ち着いたから。ありがとう」
彼女の言葉からはある種諦めや呆れのようなものが感じられたが、そこにもう棘はなかった。俺は歌恋からそっと離れ、隣に座り直した。
「なんでじゃろうね、キミの前だと泣いてばっかじゃね」
「女を泣かせるのは良い男の特権だからな」
「アホ言いんさんなや、馬鹿」
彼女は涙をパーカーの袖で拭うと、少しだけ照れくさそうに笑って見せる。そして、頭を俺の肩に預けて目を閉じた。
「優しくしてくれた分、なんかお返しせんにゃあね」
「なんだよ急に」
「一つ、キミにヒントをあげる。でもそれを言ったら、私の事嫌いになるかもしれん、じゃけん⋯」
止んでいたはずの風が再び強く吹き、彼女の髪が揺れて俺の顔をそっと撫でた。
「じゃけん、もうちぃとだけこうさせて」
歌恋はそう言うと頭を俺の肩に預けたまま、両腕で俺の右腕をぎゅっと強く抱いた。彼女が俺に何を伝えようとしているのか、俺には全く想像もつかなかった。だけどそれでも、今だけはこうやって彼女の温もりを感じていよう、そう思った。
それからどのくらい時間が経っただろうか、歌恋はそっと体を離すと顔をこちらに向け、両手で俺の顔を包み込むように持つと、自分の方へと引き寄せてキスをした。そしてゆっくりと顔を離すと、じっと俺の目を見つめたまま口を開いた。
「松本奈緒が不登校になったのは、私が掲示板やSNSに色々と書き込んだせいだよ」
「⋯やっぱりそうだったのか」
「今の私からキミに言えるのはここまで。ねぇ、雨宮くん」
「ん?」
「私の事、嫌いにならないでね」
彼女はそう言うとすっと立ち上がり、階段を降りていった。俺は彼女が言った言葉と、僅かに残るキスの感覚を忘れないように心に刻み込むと、誰もいなくなった神社を後にした。
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