第29話Scabiosa

家に帰り、消し忘れていた風呂場の電気を消してリビングに向かうと、俺は倒れ込むようにベッドに寝転んだ。歌恋の棘のある言葉や、涙を流して肩を震わしている後ろ姿、そして唐突なキスと最後の言葉。ありとあらゆる感情が押し寄せ、俺の頭はパニックになっていた。七月に入ってすぐの頃、つまり俺が最初に「白いスポーツカーの噂」を耳にしたあの日には、まさかこんな出来事が俺の身に起こるとは想像もしていなかった。

ビールでも飲んで気持ちを落ち着けようと考えていると、ポケットの中のスマホが振動した。スマホの画面には松本奈緒の名前、正直今日は一人になりたい気分だったが、少し悩んで電話に出ることにした。

「もしもし」

「なんだよ稔、その腑抜けた声は」

「はは、色々あってちょっと疲れてんだよ」

「あはは、そういう時は酒でも飲んで忘れるのが一番だな」

確かにそれは言えてる。今ちょうどそうしようとしていた所だからな。俺はスマホを持ったまま冷蔵庫を開けた。

「おいおい、待てよ。一人で飲もうってか?」

「悪いかよ」

「別に悪くなんてねぇけどよ、せっかくならウチと飲みに行こうぜ」

「⋯どうすっかな」

明日は凛華の手術の日だし、今日はもう色々あって疲れている。俺の心は断る方向に傾きかけていた。

「美味いお好み焼きの店があんだよ、食いに行こうぜ」

その一言に俺の腹が鳴った。そういえば最近ろくに飯を食っていなかった。忙しくて忘れていた空腹は、一度思い出すと波のように一気に押し寄せてきて、俺の頭の中はお好み焼きの焼ける音や焦げたソースの匂いでいっぱいになった。

「ああ、じゃあ付き合うよ」

「あはは、稔なら乗ってくれると思ってたよ。それじゃあ10分で迎えに行くから待ってろよ」

彼女はそうまくし立てると一方的に電話を切り、俺は取り出したビールを冷蔵庫へと戻した。

アパートの前で煙草を吸いながら待つこと数分、黒いチェイサーを走らせて奈緒が現れた。

「待たせたな」

「全然、と言うか10分っつったのに五分で来るとか、またぶっ飛ばしてきたのか?」

「あはは、それはご想像にお任せするよ」

俺がシートベルトを締めると、彼女はアクセルを踏み込んで車を発進させた。俺はいつもと雰囲気の違う彼女の服装に気が付き、なんの気無しに聞いてみることにした。

「今日はずいぶん女の子っぽい格好してるんだな」

「あはは、なんだお前喧嘩売ってんのか?」

「いや、なんか雰囲気変わるなって思ってな」

「今日行く店はカタギの店だからな、いつもの格好だと浮いちまうんだよ」

そう言って笑う彼女の服装は、黒のタンクトップの上にデニム生地の薄手の長袖シャツ、そしていつもはカーゴパンツをはいているのに対して、今日はスカートを履いている。なるほど、これなら両腕のタトゥーは隠せる。

それから数分後、シャッター通りの入口付近にあるコインパーキングに車は停まった。少し足早に歩く彼女のペースに合わせ、彼女の後ろを俺もいつもよりペースを早めて歩く。相変わらずシャッター通りの名に恥じない寂れ具合だ。奈緒はパチ屋の手前の路地に入り、一軒の薄汚れたお好み焼き屋へと俺を案内した。

「こう見えて繁盛店なんだよ、ここ」

そう言って店内へと入る。彼女の言う通り平日だと言うのに狭い店内はほぼ満席で、お好み焼きのいい匂いが漂っていた。

奥の席に座り、二人分のお好み焼きといくつかの鉄板焼き、そして瓶ビールを二本注文する。すぐにビールとグラスが運ばれてきて、互いのグラスにビールを注いで乾杯をした。カラカラに乾いていた喉に冷たいビールが流れ込み、小さなグラスに注がれたビールはあっという間に空になる。

「稔は酒強いよな」

そう言いながら、奈緒は空いた俺のグラスにビールを注いでくれた。しばらくして注文した料理が運ばれてきて、熱々のお好み焼きを口に頬張った。

「⋯上手いな」

「だろ?いっぱい食えよ」

そう言う奈緒は少し嬉しそうだ。俺は口の中を火傷しながらお好み焼きや鉄板焼きを食べ進め、久しぶりに満腹になった。奈緒は見た目に反してとても上品な食べ方で、俺のグラスが空になりそうになると自然とビールを注いでくれる。とてもヤクザの娘とは思えない程に礼儀正しく、気遣いの出来る女の子だと俺は思った。

「たまにはこうやって一緒に飯食うのも悪くないだろ?」

「だな、友達と一緒に飯食ったのなんて何年ぶりか分からないけど、楽しかったよ」

「じゃあ店変えて飲み直そうぜ」

「ああ」

俺が財布を出そうとすると、彼女は「ウチが誘ったんだから」とそれを制止して支払いを済ませた。

「ありがとな」

「だからよ、前にも言ったけど礼は最後の最後まで取っとけよな」

そんな会話を交わしながら、お好み焼き屋の隣にある雑居ビルへと入り、階段を登った先にある飲み屋へと入る。奈緒は羽織っていたシャツを脱ぎ、両腕のタトゥーがあらわになった。どうやらこの店はカタギの店ではないようだ。

「ジントニック二つ、後は灰皿も」

こうして奈緒と二人きりの二次会がスタートした。俺は少しでも良いから何か事件に関する手がかりを手に入れようと心に決めて、ジントニックに口をつけた。

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