第26話Cerasus × parvifolia
商店街にたどり着いた時には、俺の傘は風で折れ曲がり、体は雨でびしょ濡れになってしまっていた。俺は商店街の寂れた服屋のガラスに映る自分の姿を見て、火事があった花火大会の日のことを思い出していた。
あの日も同じように雨に濡れたっけな、そんな事をぼんやりと考えながら歩き、歌恋と出会ったバーの前に行く。店のドアには「臨時休業」と書かれた張り紙が貼ってある。台風の影響だろうか、俺は再び歩き出し、商店街の中にあるコンビニに立ち寄った。
入り口でカゴを手に取り、必要なものを淡々とカゴに放り込んでいく。最後にもう一度入り口付近に戻り、ビニール傘を手に取ってレジへ向かう。コンビニを出た俺は買い物袋からペンとメモ帳を取り出して、短いメッセージを書いた。一枚目には「スズキカレンが来たらこのメモを渡してください」と、バーのマスターへのメッセージを。名前をカタカナで書いたのは、彼女の名前の漢字を知らなかったからだ。そして二枚目のメモには「Nerine」とだけ書く。買い物袋から密閉出来る小さなビニール袋を取り出し、二枚のメモをその中に入れてしっかりと閉じてバーへと向かう。
再びバーの前に到着した俺は、ドアの濡れていない部分を探し、メモの入ったビニール袋をガムテープで貼り付けてその場を後にした。バーのマスターが彼女にメモを渡してくれる保証は無いが、もしメモが彼女の手に渡ったら、彼女なら必ず俺のメッセージの意味を理解してくれると確信していた。
俺はスマホを取り出し、「Nerine」という名のオープンチャットを作成する。自分の名前をどうするか迷ったが、適当に自分が吸っている煙草の銘柄である「セブンスター」にしておいた。後は歌恋からのメッセージを待つだけだ。
タクシーを拾って帰ろうと思い道端で手を挙げて待つが、どのタクシーも停まりはするものの、びしょ濡れを俺を見ると乗車拒否をして走り去って行った。一時間程粘ってみたが、俺は諦めて仕方なく歩いて帰ることにした。
家に帰った俺はシャワーを浴びてカップ麺を食べ、明日からの予定を考えていた。可能なら全ての面会時間に凛華に会いに行きたかったが、悩んだ末昼と夕方のみ行くことに決めた。そして夕方の面会が終わってから事件について調べ、朝方から昼前にかけて仮眠を取ることにする。
数日前に事件について纏めたルーズリーフを取り出し、新しく手に入れた情報を書き足していく。定期的にスマホを確認するが、歌恋からの連絡はまだ無い。店が閉まっているのだから当然なのだが、それでもなるべく早く彼女と連絡を取りたいという焦燥感のような思いが自然と俺にそうさせる。結局その日のうちに彼女からの連絡はなく、俺は睡眠薬を数錠飲んで眠りに落ちた。
翌朝、何度も重ねがけしたスマホのアラームで目を覚ました俺は、顔を洗ってまだ眠気の残る頭をスッキリとさせベランダに出て煙草に火を付けた。台風は夜中のうちに過ぎ去ったようで、道路はまだ濡れているものの気温は高く、時折雲間から見える太陽が眩しかった。スマホを確認するが、まだ歌恋からの連絡はない。
着替えを済ませ久しぶりに洗濯物をベランダに干すと、家を出て病院へと向かった。
「痛み止めがようやく効いてきたみたいで、ここに運ばれてきてから初めてぐっすりと眠ってるんですよ」
看護師に小さな声でそう言われ、俺は彼女を起こさないように慎重に椅子を置いて傍に座る。結局昼の面会中に凛華が目覚める事はなく、俺は病室を出て病院内にある図書館のような部屋で適当に選んだ本を読んで時間を潰した。
夕方の面会時間には彼女は目を覚ましていて、他愛のない会話を交わした。途中、整形外科の医者がやってきて「左腕の骨折は手術をした方が治りが早いので、早ければ明日手術をしましょう」と告げて去っていった。
「手術って聞くとなんだか怖いっスね」
「だな、手術を受けるのは初めてか?」
「初めてっスね、先輩は受けたことあるっスか?」
「ああ、俺も手の骨が折れて手術した事あるよ」
そう言って右手の小指の付け根にある傷跡を凛華に見せた。
「ホントだ、やっぱり痛かったっスか?」
「いや、腕に麻酔して手術したから痛くはなかったかな。あ、でも麻酔の注射と術後は痛かったけどな」
「あはは、注射かぁ。ボク注射苦手なんスよね」
「あはは、俺もだよ。でもよ、一番キツかったのがさ、手術中にトイレに行きたくなってよ」
「先に行かなかったんスか?」
「行ったんだけど、緊張するとトイレ行きたくなるだろ?」
「そうかなー、それで手術中ずっと我慢してたんスか?」
「そうそう、結局三時間くらい我慢してよ、あの時は死ぬかと思ったよ」
「あはは、先輩面白いっスね」
そんな事を話しているうちに面会時間は終わり、俺は「また明日な」と言って病室を後にした。病院を出てスマホを見るが、まだ歌恋からの連絡は無い。バーがオープンするのが19時、俺は彼女からの連絡を待ちつつ、歌恋と初めて話した地元の神社へと歩を進めた。
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