第18話Lavender
土砂降りの雨の中、俺は重い足取りで商店街の出口へと向かっていた。ポケットの中の煙草は雨に濡れてダメになってしまった。スマホだけはなんとか濡らさないように手で覆っていた。
何とかスマホを濡らさずにアーケードの下に辿り着いた俺は、煙草屋を見つけて中に入った。いきなり飛び込んできたずぶ濡れの男に、店主らしき男が怪訝そうな顔をする。俺はそんな事は気にもとめず、セブンスターとライターをレジに置いて金を支払い、店を出て煙草に火を付けた。
雨に濡れたシャツを絞り、顔に張り付いた前髪をかきあげる。半ば放心状態で煙草を吸っていると、左手に持ったスマホが振動した。画面に表示された名前は、松本奈緒だった。俺の脳裏に先程の出来事がよぎり、電話に出るかどうか迷う。正直今は奈緒と話す気分にはなれなかった。
「おい、なんででねぇんだよ」
そう声をかけられ、声のする方へ視線を動かす。視線の先には、スマホを耳に当てたまま少し機嫌の悪そうな顔をした松本奈緒が立っていた。
「稔、お前ずぶ濡れじゃねぇか」
俺が何も返せずにいると、彼女は俺の腕を掴み、無言で歩き出した。抵抗する気力もなく、腕を引かれ歩く。
「乗れよ」
「いや、でも…」
「良いから、乗れ」
彼女はそう言うと、道端に停めてある真っ黒なチェイサーの助手席に俺を強引に押し込んだ。
「シートベルトくらい自分でしろよ」
言われるがままにシートベルトを締めると、彼女はエンジンをかけ、車を発進させた。行き先も言わず無言のまま、車はグングンと進んでいく。濡れて体に張り付いたシャツは冷たいのに、なんだか頭が熱く、次第にぼうっとしてきた。
「おい、稔。大丈夫か?」
彼女がそう言って俺の肩を揺らしたが、俺はもうそれに答える元気もなかった。徐々に目の前が暗くなっていき、俺の意識はそこで途切れた。
目が覚めると俺は見知らぬ部屋のベッドの上にいた。まだ少し熱っぽい頭を左手で押さえ、少しだけ上体を起こし辺りを見渡す。周りには何かの機械が乱雑に置いてあり、鉄と油の匂いが鼻を突く。部屋と呼ぶには広すぎるそこは、どうやら何かの工場のようだった。少し離れた場所に置いてあるドラム缶には火がくべてあり、濡れたシャツやズボンが干してある。掛けてある布団を捲ってみると、俺は見知らぬ服に着替えさせられていた。
「やっと目が覚めたか」
声のする方へ顔を向けると、安堵の表情を浮かべた奈緒が立っていた。
「お前がここに運んでくれたのか?」
「そうだよ、ったくいきなり車の中で意識を失いやがって」
「すまん」
「まあタチの悪い風邪でも引いたんだろ、もう少し寝てろよ」
「なんつーか、その、ありがとな」
「良いって、ウチらはダチだろうが」
「ははは、そうだったな。服も奈緒が用意してくれたのか?」
「ああ、着替えさせるの大変だったんだからな」
「…何から何までやってもらって悪いな」
「まあ、その、下着までは替えてないから安心しろ」
そう言うと彼女は顔を少し赤くして、そっぽを向いた。おそらく照れているのだろう、俺は以前から奈緒の事を美人だとは思っていたが、初めて可愛いと思った。
「ウチはちょっと出掛けてくる。飲み物とか食い物はそこのテーブルに置いてあるから好きにしろ」
彼女はそう言って工場を出ていった。俺はテーブルに置かれていたポカリを一口飲んで、再びベッドに横になった。歌恋の言葉と奈緒の優しさ、どちらを信じればいいのか分からない。でも、彼女が戻ってきたらきちんと話を聞こうと俺は心に決めた。どうやって話を切り出せば良いのかはまだ分からないけれど、今回ばかりは逃げてはいけない気がした。例えそれによりどんな未来が待っていようと、一度首を突っ込んだからには最後まで見届ける義務があるはずだ。それに、あのドライブをした日以来連絡の取れない凛華の事も心配だ。
「とにかく、今は体調を整えるのが第一だな…」
雨音の響き渡る、誰もいない工場のベッドの上で、俺は自分に言い聞かせるように、独り言を呟くと、目を閉じて深い眠りに落ちた。
どのくらいの時間眠っていたのかは分からないが、目が覚めると俺の体はずいぶんと良くなっていた。奈緒はまだ帰ってきていないのか、工場内は相変わらず薄暗く人の気配はない。スマホを確認すると、バイト先からの大量の着信があり、バイトを無断欠勤してしまった事に気が付いた。かけ直そうと思ったが、今の状況を上手く説明出来る気がしなかったのでそのまま放置する事にした。一ヶ月くらい働かなくても生きていけるくらいの貯蓄はある、これを機にバイトをやめて新しい仕事を探すのもアリかもしれない。そんな事を考えながら煙草を吸っていると、工場のシャッターが開き奈緒が戻ってきた。
「あはは、その様子だともう体調は戻ったみてぇだな」
彼女は再びシャッターを下ろすと、缶ビールを一本投げて寄こした。俺は缶ビールを落とさないように慌てて受け取り、栓を開ける。開けた瞬間に勢いよく泡が吹き出してきて、顔と手がビールまみれになってしまった。
「あははは、投げたんだから泡が吹き出すに決まってんだろ」
「じゃあ投げるんじゃねーよ」
「まあまあ、もう一本あるから安心しろ。ほら、これで顔拭けよ」
今度は黒いタオルが飛んでくる。俺はそれを受け取ると、素直に顔を拭いた。
「それで、あの晩何があった?」
「ああ、俺もちょうどその話をしようと思ってた所だ」
「そうかい、じゃあ早速聞かせて貰おうか」
俺は一度だけ深呼吸をして、覚悟を決めて言葉を発した。
「鈴木歌恋を知ってるか?」
奈緒の表情が一瞬、曇ったような気がした。
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