第10話Black-eyed Susan vine
朝早く目が覚めた俺は、久しぶりの二日酔いに苦しんでいた。ガンガンと痛む頭を抱え、大量のお茶を飲んで少しでも酒が抜けるように努力をしてみたが症状は一向に良くならない。今日が休みで良かったと心底感じる。
昼過ぎ、ようやく二日酔いが覚めてきた頃に凛華から電話がかかって来た。
「もしもし」
「あ、先輩起きてました?」
「ああ、どした?」
「あれから何か分かったかなって気になったんスよ」
俺はあの晩凛華と別れてから起こった出来事を話した。凛華は所々相槌を打ちながら、俺が話終わるまで一切口を挟まずに聞いてくれた。
「まぁそんな感じで、特に進展はないな」
「そうだったんスね。先輩、そのヤクザの娘は信用出来るんスか?」
「うーん、どうだろうな。正直今はまだ分からねえけど、味方は一人でも多い方が良いんじゃねぇかな」
「まあそれもそうっスね。けど、もし少しでも危ないなって感じたら、すぐにボクに連絡してくださいね」
「ああ、ありがとう。清水こそ、また何かあったらすぐに連絡してこいよ」
「了解っス。先輩」
凛華はそこで言葉を切って、少しの間黙り込んだ。俺は黙って彼女の次の言葉を待つことにした。
「もしも先輩に味方が一人もいなくなって、一人ぼっちになったとしても、ボクだけはずっと先輩の側にいますから。それじゃ、またっス」
彼女はそう言うと電話を切った。きっと凛華は凛華なりに俺の事を心配してくれているのだろう。
「引き返すんなら今しかねぇぞ」
昨日松本奈緒に言われた言葉を思い出し、俺は今一度自分が置かれている状況を整理してみることにした。白いスポーツカーの噂はおそらく清水凛華の事で間違いない、ヤクザの娘の噂は松本奈緒の事で間違いないだろう。ただ、実際に二人と話してみた感じでは、とても二人が人殺しだとは思えない。
そうなると残るは殺人依頼のオープンチャットの噂と、女子高生の噂だ。バーで出会った歌恋と呼ばれる少女とは未だに直接会話すら出来ていない。だが「無駄なこと」という謎のメッセージ、そして「松本奈緒はヤクザの娘」との情報、そして忘れかけていたが、確か最初に彼女が匿名掲示板に書いていたメッセージは「犯人はタトゥーの入った人物」だったはずだ。
タトゥーと言えばやはり松本奈緒なのだが、清水凛華や公園で出会った山本楓花の体にタトゥーが無いとは言いきれない。猫の死骸が置かれていた日にタイミング良く現れた山本楓花についても、まだまだ分からないことだらけだ。
一人で悩んでいても仕方がないと思い、俺はシャワーを浴びて服を着替え、出かける事にした。行く宛て等特にないが、家でじっとしているのも落ち着かない。
ドアを開けると外はもう暗く、アパートの廊下には闇が広がっている。数秒後、人感センサーによって廊下の蛍光灯が灯る。俺はポケットから鍵を取り出し、ドアに鍵をかけようと振り返った。
「うわっ」
驚きのあまり思わず声が出てしまう。取っ手型のドアノブに赤黒い何かが付着していたからだ。それは丁度人の手で握ったように付着しており、俺は恐る恐る赤黒い何かを指でなぞった。まだ完全に乾ききっていない、やや粘度のある液体が指につく。俺は指についた液体を、鼻に近付けて臭いを確認する。少し鉄っぽいようで、それでいて生臭いその臭いは、生き物の血液で間違いなさそうだ。呆然と立ち尽くしていると、廊下の蛍光灯が消え、再び辺りは闇に包まれる。一気に恐怖が増し、俺は慌てて部屋の中へと戻った。
数分後、手についた血を洗い流し、キッチンにあった布巾でドアノブの汚れを綺麗に拭きとった俺は、布巾をビニール袋に入れてキツく縛り、近所のゴミ捨て場にそれを捨てた。
閑静な住宅街に人の気配は無い。だが、俺は誰かに見張られているような気持ち悪さを感じ、なるべく人が多く明るい大通りを目指して歩き出した。
いつもは使わないバスに乗り込み、町の中心部を目指す。途中のバス停で学生が一気に乗り込んで来て、バスの中はたちまち満員となった。窓の外に流れる夜景を見ながら考える。「一体誰が、いつ、何のために」いくら考えても答えは出ない。
バスは峠を越え、バス停に止まる度に学生達が少しずつ降りていく。もうすぐ町の中心部に到達しようかという時、俺の隣に座っていたサラリーマン風の男が席を立ち、代わりに誰かが俺の隣に座った。花のような香水の香りがふわりと漂い、俺はどんな人が隣に座ったのかと気になって、窓に映る姿をチラリと見た。
一瞬、背筋が凍るような感覚を覚える。俺の隣に座っているのは、バーで二度会った歌恋と呼ばれる少女だった。それは偶然と呼ぶには出来すぎていて、俺は降りる予定のバス停を過ぎた事にすら気付かない程に動揺していた。
もしかしたら人違いかもしれない、そんな僅かな望みを抱き横を見る。少し幼さの残る端正な顔立ちに、黒くサラサラな前下がりボブ。白い薄手のパーカーにジーンズ生地のショートパンツと黒のスニーカー。どこからどう見ても歌恋だった。
彼女は俺の視線に気付いたのか、ゆっくりとこちらへ顔を向けた。彼女の真っ黒で大きな瞳からは、一切の感情が読み取れなかった。
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