第9話Blue daisy
翌朝、強い風と雨音でアラームが鳴るより早く俺は目を覚ました。結局二時間ほどしか眠れなかった。スマホを見ると、凛華から「了解っス」と一言だけ返事が来ていた。
ベランダに出て寝起きの一服をするが、風が強い事もありベランダまで雨が入ってきて俺はびしょ濡れになってしまった。どうせシャワーを浴びるから良いかと半ば諦めて、煙草の火が消えないように気を付けながら一本吸いきった。
ベランダの下を覗くと、昨日の事件現場に誰かが置いた花やジュースが、雨と風でぐちゃぐちゃになっている。昨日すぐ近くでどこかの誰かが死んだ、あまりにも非現実的すぎて逆に実感が湧かない。
睡眠不足から何度も眠りそうになりながらも、なんとかバイトを乗り切った。スマホを取り出し時間を確認する、22時25分。これならなんとか23時に間に合いそうだ。俺は急いで着替えを済ませ、店を後にする。外は相変わらずの土砂降りだ。
「二分遅刻だぞ」
タトゥーショップ「金盞花」のドアを開けると、機嫌の悪そうな声が出迎えてくれた。
「悪い、雨と風が凄くて思ったより時間がかかった」
「びしょ濡れじゃねーか、傘はどうした?」
「途中でぶっ壊れた」
「あはは、風邪引くぞ。これで拭けよ」
そう言うと奈緒は黒いタオルを投げて寄越した。俺は素直に従い、タオルで頭を拭く。流石に小さなタオル一枚では全身を拭くのには足りなかった。服は自然に乾くのを待つしか無さそうだ。
「それじゃ行くか」
「どこの店に行くんだ?」
「まあ黙って着いてこいよ」
そう言うと奈緒は店を出て鍵をかけると、同じ雑居ビルの五階にある、看板も何もない店へと俺を案内した。ドアを開け店内に入る。店内は無人で明かりもついていない。
「ここは今はウチの親父が昔やってた店なんだけどよ、今は営業してねー店なんだ」
奈緒はそう言いながら部屋の電気を灯す。薄暗い明かりに照らされた店内は、アメリカンな雰囲気のバーのような作りになっていた。
「適当にその辺に座れよ」
言われるがままに近くにあるソファーに腰掛ける。定期的に誰かが掃除をしているのだろうか、ソファーもテーブルも埃一つなくとても綺麗だった。
「雨宮、何飲む?」
「俺はビール」
「それならそこのサーバーから自分で勝手に注いでくれ」
俺がビールを注いでいる間に、奈緒は棚からウイスキーを取り出して、氷とグラスを持ってソファーに座った。
「それじゃ、クソみたいな夜に乾杯」
「なんだそれ。乾杯」
こうして二人きりの奇妙な飲み会がスタートした。元々人見知りがちな性格の俺は、緊張を誤魔化すために一杯目のビールを一気に飲み干し、空いたジョッキに二杯目を注いだ。奈緒はグラスに注いだウイスキーをチビチビと飲んでいる。
「ウチはな、こう見えてカタギじゃけん」
「そうなんか?」
「ああ、確かにウチの親父はヤクザじゃけどな。でもウチはウチで別の人生を歩いてるし、多少グレーな事はやってるけどヤクザじゃないんよ」
「やっぱり、ヤクザの娘って生き辛いんか?」
「そりゃあ、普通の奴に比べたら生き辛いよ。周りからは敬遠されるしな、じゃけんウチは友達もおらん」
「そっか、それは何か寂しいな」
彼女は少し寂しそうな表情を浮かべ、グラスを傾けた。俺は昨日の事を思い出し、謝ることにした。
「昨日はごめんな」
「何が?」
「裏社会の人間だなんて言ってごめん」
「あはは、別に良いよ。半分は本当だしな、雨宮は優しいな」
俺はよく優しいと言われるが、その度にどんな反応をしたら良いのか分からなくなる。素直に喜べば良いのだろうが、俺はどこかひねくれていて、相手の言葉をそのままの意味で受け取るのが苦手だ。
「せっかく褒めてやってんだから、ちったぁ嬉しそうな顔しろよな」
「昔さ、初めて付き合った女と別れる時に言われたんだよ」
「なんて言われたんだよ」
「『優しいだけじゃダメ』って」
「あはは、そりゃ最もだな。けど」
「けど?」
「誰かに優しくしたくっても、素直に優しく出来ねぇウチに比べたら何倍もマシだと思うよ」
奈緒は自嘲気味に笑うと、グラスの中のウイスキーを一気に飲み干し、煙草を取り出して火をつけた。
「雨宮も吸うんだろ?」
そう言って灰皿を二人の間に移動させる。彼女は自分の事を「優しく出来ない」と言ったが、俺の目には自然と気配りが出来て、優しいように見えた。
「てか、松本っていくつなんだ?」
「奈緒でいいよ。ウチは19だ、雨宮は?」
「未成年なのに煙草吸ってんのか。俺は21だよ」
「あはは、酒飲んでる時点で今更だろ。そっちこそ、21にもなってバイトしてんのかよ?」
「まあ確かにそうだな。色々あってな、三月で仕事辞めたんだよ」
お互いに程よく酒が回り、話も弾むようになってきた。生まれ育った町が同じなだけあって共通の話題も多く、くだらない事を話しているうちに気が付けば二時間近く経過していた。
「それでよ、稔。昨日の話だけどよ」
奈緒はかなり酔っ払った様子で、いつの間にか呼び方も雨宮から稔に変わっている。
「あの銃弾について何か分かったのか?」
「いや、まだ詳しいことは分かってねぇんだけどな。でもやっぱりアレはトカレフの弾で間違いなさそうだ」
「それじゃまだそれ以外の情報は無しか」
奈緒に任せれば何か分かるんじゃないかと期待していた俺は、ほんの少し落胆した。それでも銃弾を見ただけで、何の弾なのか分かる辺りは流石ヤクザの娘といった所か。
「稔」
「ん?」
「お前、連続不審死事件について調べてんだろ?」
彼女はさっきまでとは全く違うトーンで、俺の目を真正面から見据えながらそう言った。彼女の表情は真剣そのもので、俺は一瞬言葉を失った。
「稔がどんな事情であの事件について調べてるのか知らねえけどよ」
奈緒はそこで言葉を切って、新しい煙草を取り出して火をつけた。
「引き返すんなら今しかねぇぞ」
「どういう意味だ?」
「それは」
「なんだよ、もったいぶんなよ」
「もし稔がこれ以上首を突っ込むんだとしたら、お前は友達を失う事になる」
彼女の言う「友達」とは、果たして誰の事なのだろうか。清水凛華の事なのか、それとも山本楓花の事なのか。それとも…。
「俺と奈緒はもう友達なんだよな?」
「当たり前だろ、だからこうやって忠告してやってんだ」
そう言うと彼女は煙草を揉み消してソファーから立ち上がり、グラスを片付け始めた。この奇妙な飲み会もそろそろお開きの時間なようだ。
「今日はありがとな、ご馳走様」
「あはは、今日の分はツケといてやるよ」
「奢りって話はどこいったんだよ」
「さあな、ヤクザの娘をあんまり信用すんじゃねえよ」
「普通自分でそれ言うか?」
「あははは、だからウチに普通は通用しねえって言ったろ」
雑居ビルの外に出ると、雨は来た時よりも激しさを増していた。俺は財布の中身を確認し、今日もタクシーで帰る事に決めた。
「なんかあったらいつでも連絡してこい」
「わかった、そっちも何か分かったら連絡してくれ」
「おう、それじゃ」
「またな」
たとて形が歪だとしても、新しい友達が出来た事実に俺の心は少しだけ満たされていた。
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