第4話
「ぜひ見てください」
そう言って彼は僕に作品を差し出した。僕はそれを受け取ると、一枚一枚じっくりと見た。
人間の手がただの紙に生命を与える。絵の具や鉛筆を使って価値あるものに変えてしまう。でも僕は、彼の絵でなければきっと価値を感じないだろうことも分かっていた。ただのラクガキと一枚の作品との間には天と地ほどの差がある。ただの紙切れでは僕の独房のような部屋に飾っても輝いてはくれない。壁紙と一緒になって僕の生活を味気ないものにするだけだ。でも彼の作品は、僕の心に明かりを灯してくれる。彼の絵は子供の絵が多い。よほど子供が好きなのだろう。いや好きというよりは共感のような気がした。彼自身が体だけ大きくなってしまったかのようだったから、無邪気に笑い、遊びまわる子供達の中に自分の姿を見ているのかもしれないと思った。
彼は一枚一枚の絵について、画材やこだわり、絵を描いた時の状況など色々なことを話してくれた。僕はそれを興味深く聞いたし、彼自身も絵について話せるのが嬉しくてしょうがないといった感じで嬉々として話していた。まるで少年が自分の力作について一生懸命に説明しているような感じだった。僕はそれが微笑ましくてつい笑ってしまった。すると彼は自分がずっと話していたことに気付いたようで
「いや、すみません。こんなに絵について話せる機会なんてなかなか無くて…つい。僕の絵に関心を持ってくれる人なんて賢治さんくらいですから、笑って許してください」
と恥ずかしそうに謝った。
「僕は大歓迎ですよ。伊藤さんのお話は聞いていてすごく楽しいですし。それにこんなに素晴らしい作品について作られる過程からお話を聞けるなんて本当に貴重ですから」
僕は慌てて言った。伊藤さんは嬉しそうに笑って僕の不注意な笑いを許してくれた。
「ありがとうございます。そんな風に言ってくれるのは賢治さんだけです」
僕は彼の創作の話が終わると、部屋のことが気になり始めた。彼のきらきらとした絵とは対照的に古びて粗末な部屋はまるで戦後すぐの時代からタイムスリップしてきたかのようだった。カーテンもない。僕の家は独房のようだと言っても鉄筋コンクリートだし新築の広々とした1LDKだ。家具も家電も一通りそろっている。それに比べるとこの部屋にはトイレすらない。おそらく共用なのだろう。代わりにもならないが小さな洗面台だけがついている。玄関とそのままつながっているこの部屋にはテレビなど無く、家具らしい家具はアトリエの机と座椅子くらいだった。それ以外はカラーボックスが一つあるだけで、他には何も無い。彼が着ているものも質素で襟口や袖口がのびている。僕はずっと気になっていた事を尋ねた。
「こんなに素晴らしい絵を描いているのに、やはり認められるのは難しいことですか?」
「はい…でも絵描きなんてだいたいそんなものですよ」
彼はあっさりと答えた。まるで自分の不遇など気にしていないかのようだった。
僕は収入の面でいささか彼が心配でもあったのだが、伊藤さんはそうした面にはまるで注意を向けていないようだった。彼はただ絵が描けるだけで幸せだとでもいうかのように何もない家の中で、そのアトリエだけ綺麗に整えている。でも僕はお金がどれほど大切なものかを知っていたので彼のように純朴に考えることなどできなかった。収入が不足していたり、不安定だというだけでどれほど心細くなるかわからない。だから伊藤さんが自分の生活に不満らしい不満も持っていない姿が僕には不思議でたまらなかった。
「伊藤さんは…お金をもっと稼ぎたいと思ったことはないのですか?」
その質問に伊藤さんは不思議そうな顔をした。
「ええ、そう思った事はありますよ。今もそう思っていますよ。でも手っ取り早く得たいとは思っていません。手っ取り早く得ようと思えば他の仕事に就く方が確実です。でも僕は絵を描いてその成果として安心して生活できるようになりたいと思っているんです。だってそれって自分の絵が認められて誰かに喜んでもらえたってことじゃないですか。そういうふうな仕事がしたいんです。賢治さんはどうですか?」
僕の質問がそのまま僕に帰ってきて僕は困った。
「僕は…手段は問題ではないと思います。お金が多い方が選択肢は増えます。言うなればお金自体が人生の選択肢を広げます。それなら、そのお金を得るための手段は問題ではないと思います。つまり僕はより稼ぐ仕事があるならそれを選びます」
「ええ、僕もその考えかたは分かります。でも僕は不器用なんです。僕にはこれしか出来ないし、絵以外のことに十分な注意を向けることができないんです。でも賢治さん、どうして突然そんなことを聞かれるんですか?」
今度は伊藤さんが不思議そうに尋ねた。
「どうしてって…」
僕は伊藤さんの質問で僕自身の人生観を問われているような気がした。そもそも僕はどうしてお金なんて話題を持ちだしたのだろうと、途端に自分の浅はかさが恥ずかしくなった。でもそれは僕の一番の感心事でもあったのだ。だからそれを十分に持っていない彼を前にして、どうしてそんなに平然としていられるのかと、まるで自分の観念が揺さぶられるような気がして尋ねたのだ。
「どうしてって…どうしてって…。それは、いくら好きでも仕事にしない人が多い中で伊藤さんがそれを選んでいるからです。芸術方面は収入が不安定だから、趣味として続ける人の方が圧倒的に多い。でもあえて伊藤さんは絵を書くことを生業にしている。だからよっぽど何かあるのではないかなと思ったんです」
僕は自分の思考を出来る限りまとめようとしてたどたどしく答えた。伊藤さんは僕の言葉を聞いてハッと閃いたように頷いた。
「生業、そう…絵を描くことは僕にとって生業なんです。そうしないと僕は生きている感じがしないんです。賢治さん、聞いてくれてありがとう。なんで僕が絵を描くかといえば、僕は感動を作りたいからなんです。感動は僕にとって絶対に必要なものなんです。確かに経済的には厳しいですが、でも僕はそれなしにはきっと生きられないのだと思います」
僕は彼の言葉を聞いて、更に自分の人生観を揺さぶられるような不安定な心地になった。
「そういえば賢治さんはどういうお仕事をされているのですか?」
僕は痛いことを聞かれたと思った。でも尋ねられた以上答えないわけにはいかない。
「僕は仕事らしい仕事はしていないんですが、今はFXで生計を立てています」
「あ、知ってます。ドルとかユーロとかが安くなったら買って、高くなったら売るんですよね?」
「そうです。幸い昔サラリーマンをしていた頃と同じくらいの収入は得られるようになりました」
「それはすごい!」
「いえ、大したことはありませんよ」
僕は謙遜ではなく、本心からそう答えた。僕はお金の面では何も苦労していない。けれど僕自身は伊藤さんと違って何も生み出していない。お金がお金を生むその仕組を使って収入を得ているだけだ。だから、やっていることといえば日がな一日パソコンの画面を見てマウスをクリックするだけで、労働らしい労働は何もしていない。だから僕は伊藤さんの前で自分がFXトレーダーだと言うのがとても恥ずかしかった。僕はその恥ずかしさを紛らわせるために「伊藤さん、もし困った事があったら何でも相談してくださいね」と言った。それは彼のためというよりは自分のために出た言葉だった。僕が必要だと思っていたお金を持っていることでどうしてこんなに居心地の悪い気持ちになるのか分からなかった。僕は歴史上のパトロンと言われる人達の気持ちが少し分かるような気がした。いや、少し違うのかもしれないが、目の前に立派な人がいてその人物は才能の面でも精神の面でも本当に優れているのに、不幸にも経済的に恵まれていない。それにくらべて自分は十分にお金だけは持っている。才能を前にして感じてしまう、不思議な、申し訳無さと義務感だ。
しかし突き詰めていくと何故申し訳ないのか説明が出来ない。経済的豊かさが自分を損じてしまうかのような奇妙な感覚が自分の中にあった。僕は自分で自分の気持ちに答えることも出来ずに俯いた。
つづく。
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