第3話

 それからというもの僕は彼と親しく会うようになった。そして僕の家には彼の作品が一つ、また一つと増えていった。今まで絵などあまり興味がなかったのに、いざ飾ってみるとどうして今まで飾らなかったのだろうと不思議に思うくらいに部屋の雰囲気を良くしてくれた。殺風景な部屋の中でそこだけがまるで別世界に通じているかのようだった。絵がまるで窓のように光を取り込んで辺りを照らしてくれる。僕は彼の作品の前に立って、ただそれを見ているだけで気持ちが穏やかになった。独房のようなこの部屋の中に居て、僕はいつもその作品が見せてくれる窓の向こうの透明な世界に思いをはせていた。

ところで、彼の名前は伊藤真というらしい。それは絵に描かれたサインで知ったのだが、僕がある日「伊藤さん」と声をかけると彼はびっくりして「どうしてご存知なんですか?」と聞いてきた。僕がサインのことを話すと「ああ、そうでした」と今度ははにかんだ。僕は、相手の名前を当てておいて自分は名乗らないというのは礼儀に欠くような気がしたので、今度は自分の名前を彼に伝えた。僕の名前は矢野賢治というのだ。僕が彼の名前を言ったのは純粋に彼ともっと親しくなりたかったからだ。

彼は僕の事を「賢治さん」と呼んだ。さすがに呼び捨てではまずいと思ったのだろう。丁寧にさん付けしてくれる。僕の方はというと「伊藤さん」だ。僕は彼の才能や人柄を尊敬していたこともあり、どうしても遠慮してしまって伊藤さんとしか呼べなかった。それを彼は特に気にした様子はなかった。

 ある日彼が自分のアトリエ(と言ってもそれは自分の部屋の隅を改造したささやかな物だった)に招待してくれた。彼の家は木造アパートの二階で、広さは六畳ほどあった。その半分が間仕切りによって仕切られて二部屋になっている。薄いベニヤ板で分けただけの簡単なものだったが、その向こう側には画材や描きかけの絵や、公園でみかけたスケッチブックなどが大切そうに整頓されていた。絵描きの部屋というと、乱雑で取り散らかしたイメージがあったのだが、彼の場合はそのアトリエの部分だけは細心の注意をはらって整えられていた。彼にとって絵がそれほど大切なものだという証拠でもあった。

彼はベニヤ板の向こう側のアトリエに行くと、スケッチブックや完成した絵を数枚持って出てきた。


つづく。

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