第2話
数日後、僕はまた彼に出会った。夜の繁華街で彼は露天商をしていた。彼は自身が描いた絵を並べて売っている。僕は足を止めた。縦横十センチ程度の小品が素朴な額に入れられて売られている。僕はその一つを手にとった。すみれの花と少女が描かれていた。
僕は彼が寒そうに手足をさすっているのに気付いた。春とはいえ、夜はまだ寒い。彼は薄手のコートしか羽織っておらず、しかもそれが使い古されて袖や襟がほころびている。新しいものを買うこともできないのだろうか。そんなお節介な想像がよぎる。僕は彼に話しかけた。
「今日は冷えますね」
彼は僕の声で「あ」と気付いたようで、また驚いたように僕の顔を見た。
「この前の…」
「ええ、公園で絵をお描きになっている時に声をかけた者です。今日たまたまここを通ったらあなたがいらっしゃったものですから…。ところでいつもここにいらっしゃるのですか?」
「いいえ、いつもではありません。ここはあまり売れませんから。たまに来る程度です。僕は色々な所でこうやって地面に布を敷いて絵を売っているのですが、今日はさっぱりです」
そう言うと彼は明るく笑った。自嘲的な話題なのに彼の言葉には全く暗さがなかった。子供のように無邪気で少し無鉄砲な感じが漂っていた。けれどその明るく何の含みもない喋り方が、僕の疲れた心には一陣の風のように新鮮で、僕は釣られて笑いそうになった。でもそこは堪えて、代わりにすみれの花と少女が描かれた絵を手にとった。少女の目がとても綺麗に描かれていた。黒く澄んだ水晶のような目がすみれの花に向けられている。慈しむような、そして同時に子供の好奇心に満ちたその眼差しは特別な魅力があった。すみれは淡い紫と青をまとい小さいながら高貴さを保っている。そしてその色彩が少女の唇の赤と互いに引き立てあっていた。
「画材は何ですか?」
「えーと、それは透明水彩ですね」
「とても綺麗な作品ですね」
僕はそれがとても気に入ったので譲ってもらうことにした。彼はとても嬉しそうだった。彼の絵そのままの、本当に子供のような表情で喜ぶ人だった。
僕は周りの邪魔にならないように彼としばらく話をした。絵も素敵だったが、僕にとっては彼の人柄そのものが魅力的だったのだ。
彼は経済的にはあまり思い通りにはいっていないようだったが、自分の生活にとても満足しているようだった。僕にはそれが不思議だったのだが、そうした真反対な所が僕を惹きつけたのかもしれない。僕には彼が輝いて見えた。彼は僕が持っていないものを持っていて、近寄ればその溢れる光で僕も照らしてもらえるような気がしたのだ。しかし同時に僕は、彼が持っていないものをも沢山持っている。それなのにどうしてこんなに欠乏感を抱いているのか不思議でたまらなかった。もしかしたら僕は沢山のものを持っているのに、本当に必要なものを持っていないのかもしれないという、どうしようもない不安さえよぎった。
つづく。
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