桜の花が舞う頃に君に出会い

sousei

第1話

桜の花が舞う頃に君と出会い  著:蒼生



 幸せなんて霞のようなものだと思っていた。茫漠として形がなく、それでいて幻想的で心を掴む。そんな曖昧模糊としたものだと思っていた。でも僕はどこかで幸せを信じ、求めていたのかもしれない。だから彼に出会い、自分に疑問を抱いたのだろう。


 あれは三月の桜の花びらが舞う午後だった。ほのぼのとした陽射しが心地良く、僕のささくれだった神経をなだめてくれた。僕はFXトレーダーとして瞬間瞬間を闘うような日々を過ごしていた。その時は午前中に少し勝って、夕方から夜にかけて始まるトレードの合間に神経を休めるために散歩に出ていた。

 桜並木の続く沿道をとぼとぼと散歩しながら、僕は注意をひかれて車道を挟んで向かいにある公園の前で立ち止まった。五歳から十歳くらいの子供達が遊んでいる。子供達は滑り台に登っては滑り、登っては滑り、飽くことなく続けている。またある子はブランコを漕いでどれだけ高く漕げるかと、隣の子供と競いあっている。無邪気な笑い声が桜の舞う車線の向こう側から聞こえてくる。僕はもう今年で二十八歳だから、そんな童心などとうの昔に忘れていた。けれどたまにこういうのどかな光景を見ると、何か失われたものを眺めるような懐かしさと切なさと憧れに似た感情がふつふつと湧きあがってくるのだった。

 僕はしばらくその様子を見ていたが、公園の隅の方に僕と同じ位の年齢の男を見つけて目を凝らした。どうもベンチに座ってスケッチブックを片手に何か描いている。男はもう十分大人なのに子供達の中にあって妙に馴染んでいた。大人が持つ独特の硬さや重さのある空気を彼は背負っていなかった。まるで大きな子供のようにその目は無邪気に輝いて、自分の手元と子供達とを往復している。「さては美大生か何かか…」僕はそう検討をつけた。けれど僕の興味はそれでとどまらなかった。彼を見ようと車道を渡り、向かいの公園に足を踏み入れた。

公園に入った途端、鬼ごっこをしていた子供達が僕にぶつかりそうになりながらも上手く体をひねらせて走り抜けていった。僕にもあんな時代があったような気がしたが、それはもう思い出の中でかすみかけている過去だった。

僕は例の男の傍までいった。彼はベンチに腰掛け、一生懸命に何かを描いている。それは遊びまわる子供達の一瞬を切り取った一枚の鉛筆画だった。あれほどせわしなく動き回っているのによく描けたものだと僕は感心した。それにその絵は控えめに言ってもかなり上手かった。

「お上手ですね。美大にでも通われているのですか?」

僕の問いかけに、男はびっくりしたように振り向いて二度瞬きをした。まるで眠りからさめたばかりのような表情だった。

「ありがとうございます。でも美大には行っていないんです。僕は絵が好きで、こうやって描いて、それで出来た絵を売って生活しているんです」

「それはすごい。絵で生活するなんて大変でしょう」

僕は月次な返答しかできなかった。こういう話題はセンシティブなものなので、不用意に立ち入って何か失礼なことを言ってしまいかねなかったからだ。でも彼はさして気にする様子もなく自然に答えた。

「確かに収入は安定していませんが、僕は今の生活に満足しています。自分の好きな事を続けられるのは本当に幸せですしかけがえのないものです」

僕は一瞬緊張が解けて胸をなでおろした。男もこの手の質問には慣れているのかもしれない。彼はその後も子供の絵を書き続け、僕はその様子を眺めつづけた。というよりも彼の素朴で何の飾り気もない雰囲気が心地良かったのだ。

 それが彼との最初の出会いだった。その時はお互いに名乗る事もなくただ一時を共にしただけだった。

 僕は公園から帰ると玄関で靴を脱ぎ、一気にぶり返してくるプレッシャーから溜息をついた。公園に居た時は束の間忘れていたが、ここへ帰ってくるとまず頭の中にチャートの事が思い出されて言いようもない不安が募る。自分の投資が間違っていたのか合っていたのか、それはパソコンの画面で確認してみないと分からない。僕は書斎に行ってつけっぱなしのパソコンの画面をチェックした。赤と青の線が短く交互に並び、全体として上昇する折れ線を描いている。FXチャートは僕が散歩に行っている間もゆるやかな上昇を続けていたのだ。僕は悪夢から目覚めたかのように安堵した。そうなることは予想していたものの、それに反する動きが突然起こるのが為替相場だ。だからいつもリスクと隣合わせで気が抜けない。

僕はこの辺りで一度下降すると予想したので、十分に利益をだしている建玉を決済した。この瞬間急な下落に伴うリスクからは解放される。これがパソコンの前で味わう唯一の解放感だった。

決済をすると為替差益が収入として転がり込んできた。僕は昔サラリーマンをしていたのだが、その頃の半月分の月収に匹敵する額だった。

僕は昔貿易会社でサラリーマンをしていたのだが、とにかく忙しく、朝も早く夜も遅く、自由な時間など全くなかった。たまにある休みの日は疲れきっていて何もする気が起こらず無為に過ごす事が多かった。だから体を壊したのをきっかけに、もっと自由な生活を求めてたまたまFXに辿り着いた。

FXは僕を苦しめていた時間の束縛から解放した。収入面でも当時以上の収入を得られるようになった。

時間的にも経済的にも何も問題はない。けれど日がな一日パソコンの画面に表示されるグラフを見ているだけなので、退屈で気分も鬱屈しやすい。サラリーマンの頃のストレスと比べることはできないが、これはこれで空虚で憂鬱な気分になる。満たされているとは感じられないのだ。気が滅入ってイライラすることもあるし、予想が外れて損をすることもある。そういう時、僕は狭い部屋から出て外の空気を吸いに行く。そして気分転換をしようとするものの、相場の事が頭から離れず、この後どう動くかという予想ばかりしている。

僕は自由を求めて今の生活を始めたはずなのに、まだ不自由な気がしていつもどこかで不満を感じていた。必要なものは全部揃っているはずなのに、何か大きな欠落を抱えているような、大きな穴が僕の中にあるような空虚さと物悲しさをいつも感じていた。

公園でのひと時は、僕にそうした現実を忘れさせてくれた唯一の時間だった。



つづく。

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