11/19 置き去り

 椿は結局ずっと玄関の前に置きっぱなしで、三日ほど待って仕方なく捨てた。その間薫くんは毎日午後の三時頃、うちにやってきてドアノッカーを鳴らした。生前、薫くんは特別な事情がないかぎり、いつもそれくらいの時間帯にやってきたものだ。古くて広くて、百年前の闇が凝っていそうな我が家が心地よい、などと言いながら。


 萎れた椿を捨てた日、叔母が家を訪れた。

「奈々子ちゃん、あれから連絡もよこさないんだもの。体調はどうなの?」

「ありがとう。もう大丈夫」

「本当に? 顔色がよくないけど。あなたもう一人暮らしなんだから、自分のことは自分でやらないと」

「一人暮らしじゃないわ」

 わたしが反論すると、叔母は溜息をつき、憐れむような目でわたしを眺めた。

 叔母が「薫の形見」と言って持ってきたのは、彼の腕時計だった。丸くてレトロな文字盤は、どちらかと言えば女物のデザインだと思っていたけど、薫くんにはよく似合った。針が止まっていると思ったら自動巻き時計だという。着ける人がいなくなったので止まってしまったのだ。

「いいの? こんな高そうなもの」

「いいのよ。奈々子ちゃんちにはお世話になったから」

 消炭色の紬を着た叔母は、しんとして静かで、やはり我が子の死が堪えているのだろうとわたしは思った。テーブルの上に置かれた動かない時計と一緒に、この世界に置き去りにされてしまったみたい――などと考えた。


 叔母が帰った後、書斎の様子を見に行った。姉はぼんやりと目を見開いている。最近、起きている時間が増えた。

「さっきねぇ、かずみちゃんが来たの」

 わたしの顔を見るなり、姉はそう言った。

 ぞっとした。たぶん顔色が変わっただろう。姉はわたしの様子に気づいたのか、「でも夢だった気もするわ」と付け加えてころころ笑った。何を信じたらいいのかわからなかった。

 姉はまだ、薫くんが遠くの湖で死んだことも、かずみちゃんが行方不明になっていることも知らない。

 少なくとも、わたしは教えていない。

「ねぇ、なぁ子ちゃん。薫くんってば、かずみちゃんを遠くの湖に置き去りにしようとしたんですって。かわいそうに」


 姉は何も知らないはずだ。

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