11/8 鶺鴒
姉の表情はすぐにいつもの柔らかいものに戻ったけれど、その一瞬の変化が怖くて、わたしはオルゴールを片付けてしまった。
姉はそのことについて、何も言わなかった。
「ふぅん。よくないよ、奈々子さん」
オルゴールのことを父の蔵書を借りにやってきた薫くんに話すと、そう言われてしまった。今日はボストンバッグを持っていない。本を借りに来ただけだからだ。
「どうして」
「忘れてるってのは、きっと理由があるんだよ。それを無理に思い出させようっていうのはさ、よくないんじゃないかな」
「そうかしら」
「うちのかずみなんか、おふくろのことは全部忘れちゃったらしいよ。あっちこっち連れ歩いて、きれいなものばっかり見せた甲斐があったと思うよ」
おふくろ、と発言するとき、彼の目つきはおそろしいほど鋭く尖った。
帰っていく薫くんを見送ったわたしは、書斎に向かった。無性に姉のことが気がかりだった。
(姉さんとかずみちゃんは違う。姉さんは母さんと仲がよかったもの)
そんなことを考えながら、廊下を足早に歩いた。
飾り棚の中で姉は起きていた。両目をぱっちりと見開いている。
「窓の外に小鳥がいるみたいなのよ」
姉はそう言った。「なぁ子ちゃん、もうちょっと近くで見せてもらえない? ちゃんと見たいの」
姉がそんなふうにせがむのは珍しい。わたしは飾り棚から姉を取り出し、胸に抱いて窓辺に立った。姉の豊かな髪と、頭蓋骨の丸さが心地よかった。
窓を開けると、愛らしい鶺鴒が目に入った。金属の手摺の上をぴょこぴょこと跳ねている。姉はそれを目で追う。
「何かしら、なつかしい気がするの。ねぇ、なぁ子ちゃん。むかしうちで、ああいう鳥を飼っていたことがなかった?」
姉が言った。
小鳥など飼ったことがあっただろうか? わたしは記憶をたぐってみる。なかったはずだ。でも、たとえば、たまたま迷い込んできたことなら――
あった。
いつだったか、羽根を痛めたらしい鶺鴒が、書斎の窓から飛び込んできた。私はそのときのことを父から聞いた。
その鶺鴒は、わたしたちが見つけたときにはもう死んでいた。母が殺したのだ。そんなひとではなかったから驚いた。でも父が言うには、首になってから滅多に動くことのなかった母が、クッションの上で突然ぐるりと回転して棚から身を投げ、小鳥の上に落ちたのだ、と。
呆然と見守るわたしたちの前で、母の首は羽毛に包まれた小さな喉に噛みつき、生々しい音をたてて肉を食んでいた。
眩暈がした。
「なぁ子ちゃん? 大丈夫?」
足元がふらつく。姉を落とさないように抱えたまま、わたしは床に座り込んだ。
忘れていた。
忘れていたほうがよかったのに。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます