第133話 「何かー、忘れてない?」

「お、蓮司。今日は早いな……」

「あ、おはよう父さん。腰、大丈夫なの?」

「まあな……」


 今朝見た夢のせいで生まれたモヤモヤな気持ちを洗面台で眠気と一緒に洗い流し、二階の部屋に戻ろうとしたらリビングから父さんに話しかけられた。

 いつも以上にくたびれた様子の父さんはテーブルに座りながら、どこか遠い目で天井を見つめる。


「ちょっとな、ハイキングでテンション上がっちゃってな……」

「えっと、それで腰は……?」

「大人になるとな、寝て起きても体力は満タンにならないんだよ……」

「で、腰は?」

「すごく痛い……」

「安静にしてなよ」


 腰が痛すぎて、父さんは何かを悟ったようである。

 だけど答えにたどり着くまでがめちゃくちゃ回りくどいのは、正直に言うと面倒くさかった。


「そういえば母さんは?」

「洗濯。旅行分と家ので数日分が溜まってるからな、張り切ってた……朝食ならあるぞ?」

「んー、後で良いや。部活でラジオ体操の当番があるし、なんていうか……外の空気が吸いたい」

「そうか。暑いから熱中症に気をつけてな。父さんは、当分家の中で良いや……」

「父さんこそ、無理しないで」


 家に両親がいて、何気ないやり取りをするのは久しぶりな気がする。

 それもこれも早霧と過ごした休みの日々がとんでもなく濃密過ぎたからだろう。


 ああ、夏休みが始まったんだなぁと。

 何故だかそんな当たり前なことを考えて、少し感傷的な気分になる。

 そんな何とも言えない気持ちになった俺は部屋に戻って着替えを済ませ、まだ時間には早いけどラジオ体操が行われるいつもの公園へと向かうのだった。



  ◆



「あっつ……」


 公園に着いた俺は、家を早く出たことをめちゃくちゃ後悔した。

 まだ七時前だというのに暑すぎる。

 昨日も快晴の空だったけど今日はその比にならないぐらいに暑かった。

 俺は日陰を求め、木々の下に設置されている二つ並びのプラスチックベンチへとゾンビのように歩いていく。


「ふぅ……」


 日陰の下に入るだけで灼熱地獄は一変し、天国になった。

 日陰になるだけでこんなに暑さが違うのか、すごいな日陰と心の中で日陰をべた褒めにする夏の朝。


「…………」


 セミの鳴き声。

 風で枝葉が揺れる音。

 夏だ、俺は今、とてつもなく夏を味わっている。

 一人だからこそ得られる、何もしない落ち着いた時間。

 最近はずっと早霧が隣にいたから忘れていたけど、いつもこうして早霧を待っていたなと思いだした。


「……れーんーじー!!」

「……ん?」


 目を閉じて夏と一体化していると、公園の入り口から俺を呼ぶ声がする。

 その奇麗な声の持ち主である白髪で世界一可愛い美少女は、右手をブンブンと振りながら俺に駆け寄ってきた。

 説明は不要だと思うが、早霧である。

 今日も学校指定の半袖ポロシャツにハーフパンツ姿と健康的な夏スタイルだった。


「おはよう! おはようおはようおはよーうっ!!」

「お、おう……おはよう」


 来るやいなや俺の隣に座った早霧が、何度も挨拶を繰り返す。

 俺は思わず顔を背けてしまうが、これは勢いに圧倒されただけで決して朝見た夢を思いだし恥ずかしくなったわけではない。


 そう、決して恥ずかしくなったわけではない。


「今日も暑いねー!」

「お、あっ、おぉ……!」


 早霧は今日も元気よく笑いながら、俺の右肩に頭を乗せて寄りかかってくる。

 とんでもない先制攻撃に、俺の口から変な声が出た。


「あ、暑くないのか……!?」

「だから暑いよー? ふふっ、変な蓮司ー!」


 暑いと言ってるのに、ピッタリと早霧は俺に密着してくる。

 どうしよう、昨日から早霧が可愛く見えて仕方がない。

 ……いや、早霧はずっと可愛かったな、うん。

 

「んーふふん、ふーん……!」


 早霧はご機嫌に鼻歌を口ずさみながら、小さく左右に揺れる。

 その度に甘い匂いが漂ってきて、ここだけ別世界に飛ばされたみたいだった。


「ねー、蓮司ー?」

「な、何だ……?」


 隣から上目遣いで、早霧が俺を見つめてくる。

 吸い込まれそうな淡い色の瞳と、スラっと整った高い鼻、薄桃色の唇は楽しそうに両端が上がっていた。

 とんでもない美少女っぷりに俺の心臓が一瞬だけ心臓が止まりそうになって。


「何かー、忘れてない?」

「え? わ、忘れ……えっ!?」


 そして笑顔で言われた言葉で、更に心臓が止まりそうになった。

 ま、まだ俺は……何か、大切なことを忘れているのだろうか?


「さ、早霧……お、俺は何を忘れてるんだ!?」

「んー、じゃあヒント欲しいー?」

「ほ、欲しい!」

「えへへ、しょうがないなぁ……!」


 嬉しそうにはにかむ姿は可愛いが、俺はそれどころじゃなかった。

 焦る俺とは対照的に、ニコニコ笑顔の早霧は――。


「ヒントはねぇ……」

「ひ、ヒントは……!?」


 俺の肩から頭を離してから、椅子に座ったまま向き合って――。


「――んぅ」

「――んんっ!?」


 ――身を乗り出して、俺の唇を奪ってきた。


「えへ、えへへへへ! ヒントはぁ……今日のちゅーだよ! あれ、これ答えだね。えへへへへ!」

「…………」

「……あれ? 蓮司? どうし――いひゃいいひゃいいひゃいいひゃいいひゃいいひゃいいひゃいいっ!?」


 俺は早霧の頬を両手でつまみ、左右に引っ張る。

 モチモチで柔らかな頬は、驚くぐらい左右によく伸びた。

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