第122話 『れんくんと、さっちゃん⑦』

『さっちゃん、ちょっと待って!』

『あ、れんくん……』


 林道に入ってすぐに、俺は前を走っていた早霧に追いつく。

 元々身体が弱かった早霧が着慣れない浴衣を着て走っていたのでそこまで速く走れず、林の中で見失うなんて最悪な展開にはならなかった。


『こっちは暗いし、危ないよ!』

『でも、ニャンちゃんが……』


 立ち止まった早霧が、俺の言葉にシュンとして俯いてしまう。

 林道は神社の人が使っていたようで、砂利道ではあったけど点々と道の端に薄明るい照明が設置されていて完全な暗闇ではない。それでも夏祭りの会場からしたら暗闇も当然で、地の利が無い小学生二人が夜に入って良い場所ではなかった。


『かわいそうだけど……僕は、さっちゃんが怪我しちゃう方が嫌だよ!』

『わ、私は大丈夫だもん! でも、あの子は、怪我して……』


 短い言い争いの後に、どんどん早霧の声が小さくなってしまう。

 それを見て俺の胸がズキリと痛んだ。

 昔から……この時よりもずっと前から早霧と一緒にいた俺にとって、早霧が悲しむ姿は何よりも嫌で嫌で。


『すっごい、苦しそうだったんだもん……く、苦しいのは、悲しくて、辛くて、い、嫌、なんだもん……!』

『さっちゃん……』


 それが今回は、早霧の境遇と重なってしまったんだ。

 昔からずっと身体が弱くて家から出れずに泣いていた早霧と、右前足を怪我して弱弱しく鳴いた白猫の姿が……。


『ねえ、れんくん。あの子、助けてあげられないかな……?』


 すがるように向けられた瞳からは、涙が今にも零れ落ちそうだった。

 子供だった俺たちが、怪我した猫をかわいそうだからという理由で助けたって、自分たちの力でどうにか出来る筈も無くて結局は大人の世話にならなければならない。きっと多くの人に迷惑がかかるだろう。


『……分かった』


 けれどそれは、止める理由にはならない。

 だって早霧が悲しまずに、笑ってくれるなら、それで良かったんだ。


『ほ、本当っ!?』

『うん……でも危ないから、僕から離れちゃ駄目だよ。それと、もし見つからなくても、その時は帰るからね? それでも良い?』

『うん、うんっ! ありがとう、れんくんっ!』


 沈んでいた早霧の表情がパァッと明るくなった。

 この顔を見てホッとする。

 怪我をしていた白猫には悪いけど、本当にこの時の俺は早霧のことしか考えていなかったんだ。


『じゃあ、行こうか?』

『うんっ!』


 そうして俺たちは、夏祭りに来た時のようにしっかりと腕を組んで林道の中を進んでいく。

 林の中を続く砂利道を微かに照明が照らしている。そこを外れれば木々の中に闇が広がっていた。

 後ろから聞こえてきていた祭囃子も、道を進むにつれてだんだんと小さくなっていって。


『ニャンちゃーん!』


 隣を歩く早霧の声だけが林に響いて、消えていった。

 林道は少しだけ斜面になっている下り坂で。足元が見えにくい砂利道ということもあって、気を抜いたら転んでしまいそうだった。


『さっちゃん、平気? 歩きにくくない?』

『うん、大丈夫……』


 そう強がっていたが、浴衣姿の早霧は絶対に歩きにくそうだった。

 怪我をしていた白猫を早く見つけたいという焦り、だけど転ばないように小さな歩幅で慎重に歩くしかないというジレンマが襲ってくる。


 蒸し暑い、夏の夜だ。

 林に入ってから風通しが極端に悪くなって、額に浮かんだ汗が伝う。

 半袖半ズボンだった俺はともかく、浴衣姿の早霧にはこの状況全てが最悪だった。


『ニャンちゃん、いないね……』

『うん……』


 それでも俺たちは林の中を進むしかなくて、歩いていく。

 何度も白猫を呼んでいた早霧も、途中から呼ばなくなってしまった。

 時間にしたらきっと、五分とか十分ぐらいの時間だっただろう。

 だけど子供だった俺たちにとって、この薄暗い林の中で感じた時間はまるで永遠のように長かったんだ。


『ねえ、れんく――』


 ――ガサッ!


『ひゃあっ!?』

『さっちゃんっ!?』


 林の中から突然音がして、腕を組んでいた早霧の身体が強張ってしまう。


『な、なに……!?』

『ね、猫じゃないかな……』


 疲労は焦りに変わり、猫への心配は自分に降りかかる恐怖に上書きされていた。

 それでも俺がギリギリ冷静さを保てていたのは、早霧を守らなければと強く思っていたからだろう。


『にゃ、ニャンちゃん……?』


 おっかなびっくり。

 音がした林の方に早霧が声をかける。

 だけど、返事はない。

 白猫が出てくることも、また物音がすることも無かった。


『な、何かが木から落ちたんだよ……多分』

『な、何かって……!?』

『え、えーっと……!』


 早霧を安心させようとして、余計に怖がらせてしまう。

 この極限状態で俺が咄嗟に出せたのは。


『ぶ、ぶどう……そう、ぶどうとか!』

『……ぶどう?』

『う、うん! そうぶどう! くだもの!』


 好物だった果物、ぶどうだった。

 もちろん、こんな場所にぶどうの木があるなんて聞いたこと無い。

 でも俺が、木から落ちてきそうなもので咄嗟に出てきたのがそれしか無かった。


『……りんごじゃないの?』

『え、あー……だって、ぶどう……好き、だし……』


 木から落ちると言えば、りんごである。

 そんなごもっともな正論を浴びせられて、俺は途端に恥ずかしくなってしまった。


『……ふふっ』


 でも、そんな俺を見て、早霧が笑ってくれたんだ。


『れんくん、ぶどう大好きだもんね!』

『う、うん……』

『あ、そうだ! りんご飴があるなら、ぶどう飴があっても良いのにね!』

『も、もうぶどうの話は良いから……!』

『えーっ?』


 もう一度言うが、顔から火が出そうになるぐらい恥ずかしかった。

 楽しそうに笑う早霧の顔に、さっきまであった疲労や恐怖は見えない。

 安心して……だけど恥ずかしくなった俺は、ニヤニヤとこっちを見てくる早霧の手を引いて林の中を進んでいった。


『……あれ、何かあるよ?』

『え? あ、本当だ……』


 一つの不安を乗り越えて。

 猫探しはいつの間にか探検のような気分になっていた。

 また数分、林道の道を下っていく。

 その先にあったのは、古びた蔵のような建物だった。

 そこが道の終わりのようで、歩いてきた薄暗い林道の照明とは違ってその蔵の周りは明るめの外灯に照らされていた。


『お家かな?』

『どうだろう、古いけ、ど……っ!?』

『ひゃっ!? れ、れんくん……!?』

『しっ! 誰かいるよ……!』


 安心したのもつかの間。

 その蔵の扉付近に人影がいるのが見えた。

 俺は咄嗟に早霧の腕を引っ張って近くにあった木の裏に身を潜める。

 こんな暗い林の中で知らない人に会うなんて、恐怖でしかなかったからだ。


『だ、誰かって……!?』

『わ、分からないけど、静かに……』


 息を潜めて小声で話すと、早霧も無言でコクコクと頷く。

 良い人であれ、悪い人であれ、見つかればきっとこの猫探しは終わってしまうだろいうという直感があった。


 怒られて夏祭り会場に戻されるだけなら上々、けどもし危ない人だったら……?

 そう考えるだけで冷や汗が浮かんで、早霧だけは絶対に守ろうと心に誓って。


『あり? 今、何か聞こえなかった?』

『えっ……ってお前なぁ、来るわけないだろ。ここは神社の私有地だぞ? そういうこと言うなよなぁ……』


 息を潜めてすぐに、静寂に包まれた林の中に蔵の入り口から声が聞こえてきた。


『うーん、確かに聞こえたんだけどなぁ……でもさ、もし誰かに見られてるかもって、そう思う方が燃えるじゃん?』

『それに毎回付き合わされる俺の身にもなってくれよ……』


 声からして大人の、男性と女性の声だった。

 

『……あれ、この声って』

『……う、うん。さっきの』


 そしてその声に、俺たちは聞き覚えがあったんだ。


『……あ、やっぱり。さっきのお姉さんとお兄さんだよ、れんくん』

『……本当だ。こんな場所で何してるんだろう?』


 そう。

 ついさっき早霧とぶつかって転んでしまった愉快なお姉さんと、そんなお姉さんを追いかけてきた優しいお兄さんである。


 二人は蔵の入り口に立っていて、その上の照明に照らされていたんだ。


『……あのお姉さんとお兄さんなら、一緒にニャンちゃんを探してくれるかな?』

『……あ、そうだね』


 ちょっと話しただけだけど、悪い人には見えなかった。

 むしろ二人とも良い人で、それこそぶつかってしまったのは本当に偶然の事故だっただろう。

 だから俺たちは隠れていた木の中から出ようとして――。


『にひひ、そんなこと言ってさぁ……君も興奮してるんでしょ?』

『はぁ……ムードとか、考えろよな……ああ、そうだよ』


 ――抱きしめあった二人の姿を目撃して、思わずまた身を隠してしまった。


『……え、あ、あれ』

『……し、静かに!』


 暗い林を抜けた先で。

 誰も来ないような古びた蔵の前で抱き合う大学生ぐらいの男女がいた。

 漫画やアニメ、ドラマや映画でしか見たことが無かった男女の熱い抱擁が、突如として目の前で行われ、俺たちは視線が釘付けになってしまう。


『あーあ。神社の跡取り息子なのにさ、夏祭りをほったらかして裏で逢引なんてしてたら……罰が当たっちゃうかもよん?』

『したいって言ったの、お前だからな……?』


 幸か不幸か。

 暗い林の中から、蔵の入り口の照明に照らされた二人の姿は表情までもが鮮明に見えてしまった。

 楽し気にお兄さんの胸に顔を埋めるお姉さんと、悪態をつきながらもその背中を抱きしめてお姉さんの頭を撫でるお兄さん。

 二人はとても幸せそうで、だけどそこには当時の俺たちじゃ知らない感情が混ざっていて。


『じゃあさ、私がしてほしいこと……分かるっしょ?』

『本当にお前は……ほら顔、上げろよ』


 それはまるで、イケないものを見ているような気がした。


『んっ……』

『んぅ……』


 そんな俺たちが見ているとも知らずに。

 お兄さんとお姉さんは抱き合いながら、唇と唇を重ねたんだ。

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