第五章 俺はあの日のキスを思いだしたい

第105話 「れんくんのばかっ!」

『れんくんのばかっ!』


 少しノイズがかかった幼くも聞き慣れた声がして、視界いっぱいに広がるのは顔にぶつかった羊のぬいぐるみだった。

 これが夢で、昔の記憶だというのはすぐに分かった。

 どうもここ一ヶ月でよく昔の夢を見ている気がするが、それもこれも早霧とキスをするようになったのが切っ掛けだとしか思えない。


『ご、ごめんってばぁ……』


 夢の中で扉が勢い良くバタンと閉まって、それが早霧の部屋の扉だと揺れたネームプレートが教えてくれた。

 幼い俺の足元には羊のぬいぐるみが転がっていて、うろたえながらそれを拾う。


『さっちゃん……』


 羊のぬいぐるみを抱きかかえながら扉の前で呟く子供だった時の俺を、客観的に見るというのは何とも言えない不思議な気分だった。

 確かこれは夏休みに入ってからの出来事である。夏休み前に何故だか分からないが一度大きく喧嘩をして、数日をかけて仲直りをしたその続きだ。

 夏休みを前にして喧嘩をするのは今もあまり変わっていないなと思う訳だが、今までと違ってこの時の喧嘩の理由が何故か思い出せない。


 早霧との出来事は一分一秒溢すことなく全て覚えていると思っていたのだが、これはいったい何だっただろうか……?


『れんくんは私と結婚したくないんでしょ!』

『小学生は結婚できないんだよさっちゃん!」


 あ、あぁー……!

 思い出した、思い出したぞこれ! 

 何で忘れてたんだこれ! いや懐かしいなこれ!

 俺が早霧と一緒に部屋で夏祭りのチラシを見ていた時の思い出だこれ!


『ほらやっぱり! れんくんは私のこと嫌いなんだ!』

『僕はさっちゃんのこと大好きだよ!』

『うそっ!』

『本当だよっ!』


 ……今見ると相当恥ずかしいやりとりをしている気がする。

 それもこれも何故か忘れていたせいで、主体的にではなく第三者目線で客観的に見せられているのが原因じゃないだろうか。

 俺が昔から早霧のことを好きなのは変わりないと言えば変わりが無いが、自覚が無いと言ってしまえば自覚が無いなと……今なら分かる気がした。


『……ほんと?』

『うん!』


 静かに扉が開いて、隙間から幼かった時の早霧が顔を覗かせる。淡い色の瞳は涙で少し赤くなっていて、鼻からは鼻水が口を伝って顎まで垂れていた。


『さっちゃん! 顔! 顔!!』

『う、うん……』


 そんな酷い有様になった早霧の顔を見た俺は扉を大きく開いて部屋に入った。

 その際に羊のぬいぐるみを早霧に預けながら机の上にあったティッシュを数枚引っ張り束にする。そして両手がぬいぐるみで塞がった早霧の鼻に押し当てたのだ。


『大丈夫?』

『大丈夫じゃない……』


 鼻をかませてからティッシュで汚れをさっとふき取りゴミ箱に捨てる。早霧は羊を抱いたまま俯いていた。


『じゃあ、座ろっか』

『うん……』


 この時の俺のメンタルは見習いたいものである。

 早霧が落ち込んでいるのを気にせずにいつものペースで誘導して一緒にベッドに座った。羊のぬいぐるみをぎゅっと抱きしめて俯く早霧を横目に、俺は床に落ちていた夏祭りのチラシを前かがみになって拾う。


『お祭り、楽しみだね』

『ううん……』


 羊に顔を埋めた早霧が首を振った。

 少し困った表情になった子供の俺は拾ったチラシを見る。

 場所や時間の説明文の他に赤い鳥居の奥で花火とかたこ焼きとか射的とかのイラストが描かれていて、周りには大量のハートマークが散りばめられていた。


『僕はさっちゃんと一緒に行きたいんだけどなぁ』

『でも、結婚したくないって……』


 夏祭りが開催される神社は小さいながらも縁結びの神様を祀っていた。だからこんなに大量のハートマークが使われている。

 もっと幼い時は意味が分からなかったが、小学生も高学年になってくれば多少はマセてくるものなのだ。

 それにほら、占いとか願掛けとか流行る時期なので興味を持たずとも学校で噂になり勝手に耳に入ってくるのである。


 つまりこの時の俺たちは縁結びの意味を知って、結婚をするしない、出来る出来ないの齟齬から喧嘩をしていたんだ


『したくないんじゃなくて、まだ出来ないだけだよ』

『私は今、したいもん……』

『出来ないんだけどなぁ』


 ちょっと昔に戻って過去の俺を一発引っぱたきたくなってきた。

 意識して無いだけでこの頃からめっちゃ明確に好意を向けられてる。それはもう、最上級と言って良いものだろう。

 子供ながらに結婚したいとまで言われてるんだぞ。

 でも俺は早霧を守りたいって気持ちが強かったのと、一緒にいるのが当然だと思っていたからまだそういう気持ちには目覚めていなかったんだと思う。


 こういうところは女の子の方が成熟が早いんじゃないだろうか。

 ただ単純に俺が鈍いだけかもしれない。

 でも昔はこんなに感情を露わにして勢いのまま喋る事すら出来ないぐらい、早霧が病弱だったんだから仕方ないという気持ちもあった。


『やっぱり私のこと、嫌いなんだ……』

『大好きだよ!』

『じゃあ結婚しよ?』

『えぇ、うーん……!』


 ワガママ姫のエンジンがかかってきた。

 昔からこういうところは早霧も変わらないと思う。


『……ちゃんと大人になったらね!』


 そして俺も甘いままだ。

 多分、何の疑問も持たずに思いついた本心をそのまま言っている。


『……大人って、いつ?』

『……大きくなったら?』


 その辺り、かなり曖昧だった。

 それで良いのか、俺よ。


『…………やだ』

『えぇぇーっ!』


 そんなんだからそっぽを向かれてしまうんだぞ、俺。

 自分で自分に言ってるので、ブーメランが凄いが気にしない。


『……れんくん。大人になるまでに忘れちゃうか、心配だもん』

『忘れないよ! 絶対!!』


 うぐ……!

 忘れていた俺は罪悪感から大ダメージを受けた。

 この男、目の前にいる早霧を喜ばせることだけに全身全霊を注いでいて後先考えずに突っ走りすぎている。


『それに僕、大人になるまで絶対にさっちゃんから離れないから!』

『……ほんと? うそじゃない?』

『うん! だってさ――』


 ――え?

 声が、景色が、光となって消えていく。

 この感覚は知っている。だが無情すぎないだろうか。

 だって夢と言うのは今でこそハッキリしているが、目覚めたらモヤのように曖昧に薄れていく。

 それなのにこんな大切で大事な何かを、何故か忘れかけていた事さえもまだ――



  ◆



「んん……」


 頭も身体も重い。

 朝は嫌いだ。なんとなく手探りで意識だけはあるのに、身体がまるで動こうとしない。頭で考えているようで何も考えられず、頭痛の中でもがいているようなそんな気だるさが、朝に弱い俺に襲ってくるんだ。


「れーんじ」

「ん……?」


 隣から声が聞こえた気がした。

 聞き慣れたその声に、昨日までの記憶がパズルのように蓄積されていく。

 モヤモヤが徐々に晴れていく中で、隣にいる淡い色の瞳の美少女が俺の腕を枕にして微笑んでいた。


「おはよ」

「んん……?」


 早霧だ。早霧がいる。

 そうだ。確か俺は昨日早霧と一緒に風呂に入って、それでのぼせて水着を脱がせてそれで……。


「本当、朝弱いね」

「さぎ……」

 

 隣にいる幼馴染の名前を呼ぼうとして、言い切る前に俺の頬に手が伸びてきて。


「――んぅ」


 唇に、柔らかい感触が広がって。

 視界いっぱいを、早霧の顔が埋め尽くした。


「んっ……んんっ」


 唇が長い時間塞がれて息が出来なくなる。

 もがこうとしても絡められた足と頬に添えられた手が許してくれなかった。


「……ぷはっ」


 ようやく顔が、唇が離れて、早霧の顔が赤くなっているのが目に見える。

 俺の頬に手を添えたまま、目の前で早霧は自分の舌を舐めて悪戯に笑った。


「……早く起きないと、次は舌をいれちゃうぞー?」

「…………し、し、舌ぁっ!?」


 そんな悪戯な雰囲気に多少見とれてしまったが、ようやくその意味が分かった俺は全ての制止を振り切って身体を起こした。

 早霧という温もりが身体から離れて、寝起きの身体には昨晩から効いていた冷房の風が肌寒さを運んでくる。それなのに俺の胸の奥はとても熱かった。


「あはは、おはよ。蓮司……」

「あぁ……おはよう、早霧……」


 それもこれも、そんな俺をベッドの上から着崩したダボダボの部屋着で見上げてくる早霧のせいだ。早霧の方から俺をからかってきているのに、早霧自身も恥ずかしいのか顔を赤くしているのがたち悪い。

 心臓がドキドキと爆音を奏でる。それに呼応するように充電していたスマホからピピピピピピピピピとアラームの音を鳴り渡らせた。

 時刻はまだ六時十五分。夏休みにしては早すぎるアラームだった。


「ほら、急がないと遅刻しちゃうよ?」

「……遅刻?」

「……ラジオ体操! 忘れちゃったの?」

「……あ、あぁ」


 そうだった。

 今日からボランティア部こと自分らしさ研究会の活動でラジオ体操の運営側の当番だったのを、寝起きの頭で早霧に言われてようやく思い出す。

 けどそれ以上に寝ぼけていた中でキスをされた衝撃と、『忘れちゃったの?』という言葉が何故か頭の中に残り続けていた。



――――――――――――――


※作者コメント

 第五章、開幕です。

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