第101話 「そっち行って良い?」

「んー! ごくらくごくらくぅ……」

「…………」


 ごくらく is 何処?

 風呂の中は天国と言う名の地獄だった。

 狭い浴室の中に、高校二年生の男女が二人。言わずもがな、俺と早霧である。

 お互いに学校指定の水着を着ているとはいえ、これを極楽と言うには思春期男子にはとても辛いものがあった。


 足を畳み、湯船の中でコンパクトに体育座り。

 目の前にはスクール水着を着た幼馴染の背中、長く白い髪は団子状に丸められて、普段は隠れているシミ一つ無い綺麗なうなじまで見えている。

 向き合ってないだけマシだと思うが、一方的に背中を見つめるというのもそれはそれで罪悪感と背徳感が興奮と共に押し寄せてきていた。


「蓮司さぁ、よくあんなに熱いお風呂に入ってたよね?」

「……良いだろ、たまには」


 壁面のパネルは三九度を表示していた。

 熱湯を熱がった早霧を一度浴室から追い出し、蛇口からひねり出した大量の水で冷ました成果である。

 その隙を見計らって早霧が俺の部屋のタンスから持ってきたスパッツタイプの海水パンツを履いた訳だが、これが非常に履きにくかった。濡れた身体にピチピチの海パンはとんでもなく履き辛いのである。プールの授業の後に脱ぐのに手間取るのなんて比じゃないぐらいに難しいのである。


 しかし苦戦したおかげで時間がかかり、ぬるま湯が好きな俺にも適した温度になった。夏の蒸し暑い夜には丁度良く、早霧も風呂の縁に右手ごとよりかかって枕みたいにして脱力していた。

 ……目に毒とは、こういう光景の事である。


「ばばんばばんばんばん……って、何の音なんだろ?」

「……知らんが」


 風呂といえばの名曲のフレーズを呟きながらすぐに疑問に繋がる幼馴染の頭の中はどうなっているんだろうか?

 そんな疑問の一部も、この状況のせいで何も考えられずに俺は目を閉じる。


 水着、そう、水着だ。

 俺と早霧は水着を着ている。それも露出が多いものじゃなくて学校指定の、言ってしまえば健全な水着だ。

 裸じゃないので昨日よりも安全、事故は万が一にもありえない。しかしそれなのに昨日よりも心臓が高鳴っているのは何故だろう?

 それは多分、風呂場で水着と言う……背徳感しか感じない状況のせいだと思った。


「そっち行って良い?」

「……なに?」

「へへ、どーんっ!」

「な、なぁっ!?」


 早霧が跳ねて、飛びかかってきた。

 心臓が跳びはねて、止まるかと思った。

 

 バチャンと音を立てて浴槽の中で波が起こる。その大きな波を起こした張本人は、足を曲げて座っていた俺のガードをいとも容易く突き破って飛び掛ってきた。

 湯船の中で肌と肌が触れ合い、ぬるま湯の筈なのに温度が急上昇したよな錯覚に陥る。完全に懐に潜り込まれた俺の胸元に早霧の華奢な肩が触れ、身体中のいたるところに水着特有の感触と、柔らかさが広がった。


「ぎゅーっ! つーかまーえたっ!」

「さ、さささささささささささささささささぎりっ!?」


 狭い浴槽の中で完全に密着し、俺の肩に頭を乗せて見上げてくる幼馴染の破壊力は凄まじく壊れたロボットのように名前を呼ぶ事しか出来なかった。


「これでもう逃げられないね?」

「……に、逃げた覚えは無いが」

「嘘だよ。さっき逃げてたじゃん」

「あ、あれは……」


 見たいのに、顔すらマトモに見えない。

 下手に動けば変なところに触ってしまいそうで、触っても無いのに触れ合っていて、混乱と矛盾が興奮に飲み込まれていく。


「とにかく、もう捕まえちゃったもんね」

「…………」


 肩ヒモ。

 白く華奢な肩にかかった、スクール水着の太いヒモが見える。


「…………」

「…………」


 お団子。

 後頭部で纏められた、白く長い髪で作られている大きなお団子が見える。


「な、何か言ってよ……」

「え? あ……」


 ヤバい、見惚れていた。

 至近距離で見る幼馴染の、普段見ない服装や髪型に完全に見惚れていた。

 何か言わなければ、何かを。けれど頭に浮かんでいるのは肩ヒモと団子で、どちらを選べば良いかなんてそりゃあ……。


「その、その髪も、似合っていて、その……すまん、見惚れてた」

「……うえっ!?」


 髪型について、である。

 しかしはたして、これは正解だったのだろうか。

 俺に密着したまま寄りかかっている早霧がビクッと揺れて、バシャッと水しぶきが上がって、バッと肩から頭が離れた。


「な、ななな何いきなり、何っ!?」

「……何か言えって言ったの、早霧だろ?」


 早霧の顔が赤い。

 風呂でのぼせたからじゃないのは俺でも分かる。だからこそ、反射ダメージで俺にも恥ずかしさが伝わってきた。


「れ、蓮司の、ばか……」


 真っ赤な顔でシンプルな罵倒が返ってくる。

 けれど何ていうか弱々しくてしおらしくて、なんとかひねり出した言葉みたいだ。


「いっつもそうやって、恥ずかしい事ばっかり言うじゃん……」

「いつもって、そんなに言った覚えは無いが……」

「言ってるよいつもいつも! ひなちんがじぶけんに初めて遊びに来た時も私の事をあんなに沢山沢山恥ずかしげもなく褒めてくれたじゃん!」


 怒ってるのか、これ?

 しかしその件については俺にだって言い分があるので反論させてもらう。


「アレは普通だろ? 早霧の事を知ってもらうにはアレぐらいじゃないとな」

「普通じゃないよ! いっつもいっつもいっつもいっつもいっつもいっつもいっつもいっつも蓮司は昔から私の事をみんなに良く言い過ぎだってば!」

「それは早く早霧が周囲と打ち解けてもらえるようにだなぁ! それに全部事実なんだから良いだろ!?」


 早霧の事で嘘はつかない。

 全部本当の事を俺は言っているだけである。


「よ、良くないってば! アレ、すっごく恥ずかしいんだからね! 私、忘れてないよ!? 高校生になって初めての自己紹介の後で、クラスの皆に似たような事を演説しながら言ったのを!!」

「アレはクラス中の男子が早霧に良からぬ目線を向けていたからだし、それが理由で女子からはぶられないように早霧の良さを教えただけじゃないか!」

「それが問題なんだよそれが! あの後、クラスの女の子たちからすっごい質問攻めにあったんだからね!」

「でもクラスのみんなと仲良くなってくれて俺は嬉しかったぞ!!」

「それは本当にありがとね!!」


 わーわー! ぎゃーぎゃー! がやがや! ばしゃばしゃ!

 飛ぶ言葉、飛び交う水しぶき。ぬるま湯なのに、いつの間にか熱くなっていた。


「本当に、さぁ……」

「あ、おい!?」


 熱くなったと思ったら、電池が切れたロボットのように早霧が寄りかかってきた。受け止めようにもお互い水着なので、触る場所には繊細な注意をしなければ大変な事になってしまう。


「蓮司の、ばか……」

「だから何故そうなる!?」


 そしてまた、早霧は俺の肩に頭を乗せた。

 狭い浴槽の中、お互いの足がどう絡んでいるかはもう分からない。


「蓮司はいつも私の隣にいてくれてさぁ、守ってくれて、欲しい言葉をすぐにくれて、自分の事より私の事ばっかりでさぁ……すっごいばか」


 何だこれ。

 喜んでるのか拗ねてるのか罵倒しているのか、どれなんだお前?


「ばかなのに頼りになって、それなのにデリカシー無くて、急にキスしてきて驚かせてくるし……」

「そ、それは早霧もだろ?」

「わ、私はちゃんと、言うもん……!」


 早霧の顔が上がる。

 上目遣いで、吸い込まれそうな淡い色の瞳と目が合った。


「い、言ってるか……?」


 心臓がドキリと跳ねる。


「いつも言ってるじゃん……」


 ゆっくりと身体の向きが変わる。


「言わない時も、あるが……」


 細い左手が、右肩に触れる。


「蓮司は、言わない方が多いよ……」


 華奢な右手が、俺の左手と正面から握り合う。


「で、でも場所は選んでるぞ……?」


 熱を帯びた瞳が徐々に近づいてきて。


「じゃあ、今は……?」


 密着する身体が、強く押し当てられる。


「今は、したい……」

「うん、私も……」


 湿った息と息が、触れ合う距離で止まってから。


「――んっ」


 風呂の中で溶け合うように、唇と唇を重ねあった。

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