第99話 「な、何味だった……?」

 夜になればお腹が空く。

 いくらキスに夢中になっていても同じ三大欲求の一つ、空腹が訪れればそれに抗えないのが人間ではないだろうか。


 まあ、キスが性欲なのかどうかは議論の余地こそあるけれど。


「ふんふっふふふ~ん……!」


 そんな訳でキッチン。

 チチチとガスコンロの火が点火する音がして、奥からは今日もご機嫌な早霧の歌声が聞こえたりしていた。

 早霧的には俺とキスが出来て嬉しいのだろう。

 俺も嬉しい。


「はぁ……」


 しかし。

 それはそれ、あれはあれ。ウチはウチ、ヨソはヨソ。早霧は早霧、俺は俺なのだ。

 俺はキッチンから繋がるリビングのテーブル席に座り、嬉しいながらもそれとは違う理由で大きな溜息をついていた。


 理由は、またキスをしてしまったから。

 

 いやもちろんキスがしたくない訳じゃない。むしろしたい、しまくりたい。何だったらそれ以上だってもちろんしたい。けれどそれには俺たちの関係が曖昧すぎた。

 自惚れでも何でもなく、もう確実に間違いなく早霧が俺の事を好きなのは分かっているし俺も早霧が大好きである。

 けれどやっぱり見えないところで、『親友』、という最後の壁が邪魔をしていた。もはや親友でもこのまま最後までいけてしまうんじゃと何度思ったかは分からないが、俺も男という面倒くさい生き物であり一度言った言葉を引っ込めるのはカッコ悪いと思ってしまっている。


 何よりこのまま流されるだけだと、俺があの日に想いを伝えて早霧を泣かせてしまった事が全て無意味になってしまう気がした。


「蓮司ー! もう少しで出来るよー!」

「……おーう」


 そんな俺とは対照的にご機嫌な早霧の声がキッチンから聞こえる。今日は私が作りたいと言い出した早霧が今日の調理当番だった。

 とは言っても昨晩のカレーを鍋で温めなおすだけなのだが。

 本人がそれで良いのなら、それで良いのである。


「おっまったっ……せーっ!」

「……そんなに待ってないぞ」

「デートの待ち合わせ?」

「デートにカレーが並んだトレーを持ってきたら流石にドン引きする」

「あー、確かに?」


 早霧がキッチンからお皿に盛ったカレーライスが乗ったトレーを運んできて、テーブルの上に並べていく。

 俺達の席は今日も隣同士だった。対面には誰もいない、二人きりである。


「どうどう? 美味しそうでしょ?」

「……見たことないぐらい山盛りじゃなければな」

「育ち盛りかなって思って!」


 育ち盛りが食える量じゃなかった。

 大して早霧は俺の半分以下である。明らかに不平等だった。


「……俺は、早霧にも元気でいてほしいと思っている」

「え……あーっ!? 私のカレーはこれで十分だってばぁ!」

「こんな量一人で食える訳ないだろうが!」


 ギャーギャーと食事前から騒がしく、マナーの欠片も無いやりとりで俺の皿から早霧の皿にカレーライスの一部を移住させていく。

 紆余曲折あって最終的に三割のカレーライス国民が早霧国に入る結果となった。


「……ワガママだなぁ、蓮司は」

「どっちがだよ? ほら、さっさと食べるぞ」

「はーい……。じゃあ、いただきまーす!」

「いただきます……ってちょっと待て」

「え? またクレーム?」

「クレームじゃない。ていうかまたって何だまたって……。そうじゃなくて、エプロン外さないのか?」

「エプロン……? あっ、こりゃウッカリ!」


 テヘ、と自分の頭を小突いた早霧が最高にあざとくて可愛かった。

 形から入るタイプな早霧は俺の母さんが普段使っているエプロンを拝借してカレーを温めていたのである。それを着たまま食べ始めようとしたので、止めただけでクレーム扱いは流石に横暴そのもので。

 それはそうと、母さんが着ているものでも早霧が着るとこんなにも似合うというか素材と素材が相乗効果で輝くんだなと思った。


 もっと端的に言えば、早霧のエプロン姿は最高という事である。


「んしょ、んしょっと……」

「…………」

「あれ、どうしたの?」

「い、いや……」


 言えない。

 俺の隣でエプロンを脱ぐ姿が、エプロンの下からいつものダボダボ古着Tシャツが見えたのが、脱いだエプロンを畳んでテーブルの端に置く姿が、なんかエロくて良いなとか、邪な気持ちになっただなんて絶対に言えなかった。


 エプロンの魔力とは、こんなにも恐ろしいものと思い知った。


「変な蓮司。じゃあ改めて、いただきまーす!」

「……いただきます」


 疑問より空腹な早霧はそれ以上気にすることなく手を合わせ、それに俺も倣ってから一緒にカレーを食べ始めた。

 美味しい。

 一日寝かすだけでどうしてカレーはこんなにも美味しくなるのだろうか。それとも早霧が温めなおして皿に盛ってくれたからだろうか。

 答えは出ないが、箸……じゃなくてスプーンはとても良く進んだ。


「美味しいね蓮司!」

「ああ、美味いな」

「私が作ったからかな?」

「ああ、そうだな」

「えっへへへへへへへへへへへへへへへへへへへ……!」


 また、へが多い。

 最初に作ったのは俺だとか、この笑顔の前では言う気も無かった。ていうか無理だろ、この笑顔の前でそんな事を言うの。


「蓮司蓮司!」

「ん?」

「あーん!」

「んなっ!?」

「ほーら、はーやーくー! あーん!」

「あ、あーん……」

「えへへ、美味しい?」

「あ、あぁ……」


 ヤバい美味い。

 思わず語彙力が溶けた。

 あーんは前にもやったし、むしろそれ以上に毎日キスをしている仲ではあるが今日のあーんは破壊力が凄かった。

 それも全部、俺が早霧の事を本気で好きだと自覚したからだと思う。

 なんていうかもう、好きな人からされる事はなんでも好きになるんだ。


「良かったぁ! じゃあ私もやってー!」

「俺もか!?」

「はひゃふぅ……(はやくー……)」

「あ、あーん……」

「あむっ!」

「ど、どうだ……?」

「んー! 美味しいー!」


 何だこの幸せ空間。

 二人っきりのリビングでテーブルに隣り合って座り、お互いにカレーをあーんしながら食べさせあうまるで新婚の夫婦みたいな状況は。

 早霧が口を大きく開けて待っている姿もエロくてグッと来たとかそういう感情を忘れるぐらい幸せだった。


「そ、そうか……ん?」

「どしたの?」


 まあ、うん。

 気がついたら手が伸びて、早霧の頬に触れていて。


「――んむっ!?」


 目を見開く早霧の顔が、目の前にあった。

 これはきっと、幸せ空間の雰囲気に当てられたせいだ。


「……カレー、ついてたぞ」

「なっ、ひゃっ、ぶぇっ!?」


 早霧がバグッた。

 バグらせたのは俺である。

 大口でカレーを頬張った早霧の唇が汚れていたから、思わず雰囲気に流されたままキスをしてしまったんだ。

 もちろんやってしまった後の後悔は凄まじく、それは早霧の反応によって更に加速していく。

 自分のせいだが、顔がとんでもなく熱かった。


「な、何味だった……?」

「か、カレー……」

「そ、そっか……」


 もし早霧の反応がもっと違っていて、それこそ恥ずかしがるんじゃなくて喜んでいたのならきっと俺はこの幸せ空間のまま早霧の味とか気持ち悪い事を言えたと思う。

 だけどまさかこんなにも恥ずかしがって顔が真っ赤になるだなんて思っていなかったから、俺も正直な感想しか答えられなかった。


「……お、美味しいね」

「……だ、だな」


 その結果が気まずさ。

 食欲が満たされれば三大欲求の勢力図は変わっていく。

 食べれば食べるほど、あんなに美味しかったカレーの味が感じなくなって妙な雰囲気になっていくのだった。

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