第98話 「キス、しよ?」

「うううぅぅうぅううぅうぅぅぅぅうううっっ……!」

「暴れすぎだろ……」


 壁に背中を預けてベッドに座りながら早霧を後ろから抱きしめて三十分ぐらい経っただろうか。

 俺の腕の中から抜け出そうと、早霧はジタバタもがいていた。

 いつもは自分からくっついてきたり抱きついてきたりするのに、俺から抱きしめると逃げようとする。本当に気まぐれな猫みたいだった。

 しかしまあ、こういう時の対処は思ったよりも簡単で。


「ひぅぅんっ!?」


 抱きしめながら脇腹をくすぐってやれば身体をビクッと震わせて動きが止まる。俺の幼馴染は昔からくすぐりに弱いのだ。


「くっ、くすぐるの禁止ぃ……!」

「暴れるからだろうが」

「だ、だってさぁ……」


 もにょもにょと、語尾がどんどん小さくなっていく。間近で見る顔はとても赤く、どうやら恥ずかしいみたいだ。


「さ、触り方……えっちなんだもん……」

「……普通だぞ」


 ボソッと呟かれた言葉に脳がグラッとした。こんな時でも反撃を忘れない攻撃特化な幼馴染である。

 それから断じてえっちではない。普通に両手を腹に回して普通に脇腹をくすぐっただけだ。これがさっきみたいに首に手を回している状態だったら誤って胸に触れてしまう可能性があるが、腹ならその心配も無いのである。

 つまり冤罪だ冤罪。


「ていうかお前だって俺によく抱きついてるだろ。早霧は良くて、俺が抱きしめるのは駄目なのか?」

「恥ずかしいし……」

「……昨日浴室にバスタオル一枚で入ってきた奴がよく言うな」

「あ、あれは事故だから! 今度は失敗しないもん!」

「過ちを繰り返そうとするんじゃない」


 犯行予告に聞こえたのは気のせいだろうか?

 入浴タイムぐらいはゆっくりしたいものである。まあ今こうして早霧を後ろから抱きしめているのもゆっくりしていると言えばしているのだが。


「……なあ、早霧?」

「な、なに……?」


 ゆっくりしているのなら、少しだけ話をしても良いだろう。

 いつもは早霧に振り回されてばかりだから、こういう時じゃないと出来ない真面目な話だ。


「……昔はさ、こうして同じベッドの上にいる事すら出来なかったよな」

「…………え?」


 俺からの言葉が以外だったのか、早霧からの返事には少しだけ間があった。


「それが今じゃ、まさか一緒に寝るまでになるなんてな」

「それは……うん……」

「……元気になってくれて、本当に良かったよ」

「……うん……私も、元気になれて良かった……」


 今さらだけど、今だから言える事もあるだろう。

 思わず抱きしめる手に力が入ったが抵抗は無く、むしろ早霧から身を委ねてきた。


「外に出れるようになって、学校に行けて、友達も出来てさ。そりゃあみんなも子供だったから戸惑ったり身体が弱いのを悪く言う奴もいたけどさ……俺は早霧と一緒にいれて嬉しかったんだ」

「……蓮司がいてくれたおかげだよ」


 言葉は続かない。けれど嬉しい。

 だから俺の方から言葉を続ける。


「夏休みになったら毎年祭りに行ってたもんな。最初の年はそれこそその時のクラスメイトに会って一悶着あったりしてさ」

「……うん」

「けど修学旅行にはみんなで行ってさ、仲良く中学に上がって」

「……うん」

「卒業したらみんなバラバラになったけど、高校生になってユズルや長谷川と一緒に部活を作ったりしたよなぁ……まだ高二だけど、なんかもう懐かしいな」

「……うん」

「それに、毎日のように告白されてたもんな」

「……ごめん」

「謝る必要は無いだろ。そいつ等も、好きって気持ちを伝えたかっただけだろうし」


 そう。

 これが大きな変化だと思う。

 早霧が告白をされても何も思わなかった自分と、告白をする側の気持ちを知らなかった自分との境目だ。


 それもこれも早霧が親友だからとキスをしてきて、全てが変わった。

 

 ずっと隣で守らなきゃと思っていた早霧の事が好きだったって、キスをされて、これでもかと好意を向けられて、ようやく気づけたんだ。

 ……遅すぎるだろ。


「……蓮司?」

「……悪い」


 自分の不甲斐なさに顔を埋める。待っていたのは早霧の小さな背中と長い髪だ。温かくてサラサラで、安心する甘い匂いに包まれていく。

 駄目だ。何ていうか、弱気になってる。

 勝負に負けた事実が、今になって響いてきた。


「もう少しだけ。このままでも、良いか……?」

「うん……」


 だから弱音だって吐いてしまう。

 今のまま、あの日みたいに想いをぶつけても良い結果には絶対にならないと分かっていたからだ。下手したらまた早霧を泣かせてしまうだろう。

 それだけは絶対に嫌だ。


「ねえ、蓮司?」


 回していた腕に手が添えられる。

 細くて華奢で非力な、早霧の優しい手だった。


「キス、しよ?」


 弱った心に沁みるような、そんな魔法のような言葉である。

 俺の不甲斐なさとか、不安とか、そういうのを全部吹き飛ばしてくれるような優しい提案に、俺は。


「それは駄目だが?」

「何でーっ!?」


 即答で断った。

 腕の中で優しかった早霧が、激しく暴れる。


「え、駄目……!? えっ、嘘でしょ……?」

「……嘘じゃないぞ」

「嘘だよだってそーいう流れだったじゃん!」

「確かにしたいが……」

「したいんじゃん!」


 そりゃしたいよ。

 こんなにキスが好きになったの、間違いなくお前のせいだからな?


「キスしたら、キスの事しか考えられなくなるだろ?」

「え、うん……」

「今はこうして、早霧を抱きしめていたいんだよ」

「ズルじゃん……」


 何とでも言え。

 せっかく俺に回ってきたチャンスなんだ。

 だったらせめて今だけでも俺がしたいようにさせてくれたって良いだろう?


「ははは、早霧の背中は俺のものだ」

「な、何かやだそれ!」

「じゃあ髪」

「髪も駄目!」

「……じゃあ何なら良いんだよ」

「……唇、とか?」

「キスしたいだけだろ」

「蓮司のせいだよ!」


 また腕の中で暴れだした。

 暴れん坊な美少女である。


「…………顔、見たい」


 かと思えば大人しくなった。

 忙しい幼馴染である。


「いつも見てるだろ」

「今、見たい。蓮司の、顔」

「……キスするだろ」

「しないよ。ただ、見たいだけ」

「…………」


 怪しい。

 しおらしくなったがまだ罠の可能性は高い。

 だけどしおらしくなった早霧のお願いは聞いてあげたい。難しい局面に俺は今立たされている。


「疑うなら、手……掴んでて良いから」

「……そこまで言うなら」


 それを結局聞いてしまうのが、俺だった。

 そこまで言われて断るのは心苦しい。抱きしめた早霧が離れていくのは寂しかったが、早霧から俺の手を握ってくれたから寂しさは軽減された。

 右手は左手を、左手は右手を握って、向かい合うように座った俺たち。背中には部屋の壁、ここはベッドの上、逃げ場はないし逃げる気も無い。

 そして目の前には、愛しい早霧の顔があった。


「蓮司……」

「早霧……」


 お互いに名前を呼ぶこの行為に意味があるのかは分からない。ただ気づけば、どちらからとも言えず名前を呼んでいたんだ。


「もっと、近くが良い……」

「あ、おい……!」


 それが引き金になったように早霧が身を乗り出して近づいてくる。

 さっきも言ったが後ろは壁で逃げ場は無い。両手を握り合っているので防げない。

 でもキスは、しなかった。


「……平気」

「……おぉ」


 コツンと、おでこがぶつかり合った。

 早霧の熱を測って以来、二回目のおでことおでこの接触。

 しかし今回は俺の部屋のベッドの上で、早霧から俺に対してだった。


「…………」

「…………」


 淡い色の瞳が目の前にあって、その視線と俺の視線がゼロ距離で交差する。

 握り合った手に力が入って、鼻と鼻が当たりそうになって、吐く息が勝手に混ざり合って。


「――んっ」


 唇と唇が、重なり合った。

 ゲームの時とは違って、優しくて短いキスだった。


「……しないって、言っただろうが」

「……したの、蓮司からだよ」


 主義主張の平行線。

 犯人がどっちかなんて、どうでも良くて。


「――んぅ」


 手を握り合いながら、またキスをする。

 言ってた通りキスの事しか考えられなくなってしまった日曜日の夕方は、日が暮れていっても確かな熱を感じたまま、ゆっくりとあっという間に過ぎていった。

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