第87話 「……今日の晩ご飯、なに?」

 ベッドに座る俺に跨るように座った早霧が、目を閉じて俺にリップクリームを塗られるのを待っている。

 それは今の俺にとってこれ以上ないぐらいの攻撃だった。

 だって俺たちの意地と主張のぶつかり合いから始まったキス我慢対決はまだ続いているのだから。


「んー」


 そしてこの気まぐれわがまま天然甘えたがりの幼馴染様は休むということを知らないらしい。いやもしかしたら買い物や食事に出かけて十分に休んだからこうなっているのかもしれない。

 どちらにせよ、俺のピンチは変わらなかった。


「ねー、まーだー?」

「ま、待ってろ!」


 催促はするけど目は開けない早霧である。

 コイツ目を開けてても閉じてても可愛い幼馴染にただでさえドキドキしている心臓がより鼓動を速くさせていく。

 やっても地獄、やらなくても地獄の地獄祭りが冷房の効き始めた自室で開催されていた。


「ほ、ほら、や、やるから動くなよ……」

「んふー」


 俺の声は震えてリップクリームを持つ手も震える。

 満足そうな吐息を吐く美少女は口角が上がりご機嫌だ。

 薄桃色で形の良い綺麗な唇はリップクリームなんて必要ないんじゃないかってぐらいにプルプルだ。

 どうしても視線が吸い込まれてしまうのは俺が誰よりもその唇の素晴らしさを知っているからだろう。

 柔らかくて、瑞々しくて、少し湿っていて、脳を震わせるような甘さを感じる世界で一番愛しい人の唇。

 それに触れるのは俺の唇ではなく、一度俺の唇を経由して塗られるリップクリームの先端だった。


 世が世がなら、これは非人道的な拷問として歴史の教科書に語り継がれていただろう。


「んっ……」


 唇にリップクリームが触れた。

 くすぐったいのかピクッと震えた早霧から短い吐息が漏れる。俺の頭はこれだけでどうかしそうだった。

 何してるんだ俺、何してるんだ俺とサイレンみたいな自己疑問が頭の中を駆け回っていく。そうでもしないと今すぐにでもリップクリームを投げ捨ててその唇を塞いでしまいそうだったんだ。


「ず、ズレるから喋るな……」


 リップクリームが、形の良い唇を這っていく。

 まるで魔法にでもかけられたみたいに通り過ぎた部分が輝いていく。リップクリームの油分だと分かっていても綺麗に見えて仕方がない。

 これ以上最高はないと思っていた常識が崩されて、まるで世界が書き換えられたような衝撃だった。


 もちろんこれは、リップクリームを塗った唇の話である。


「お、終わったぞ……」

「ん、ん。えへへ、ありがとー」


 外した視線の端で、幼馴染の笑顔が映る。

 唇の照りや見た目が少し変わっただけなのに直視できない。

 確かにこれはキスしたくて堪らなくなる。朝から言っていた早霧の優しさを、これでもかと俺は早霧本人から痛感させられていた。


「ねえねえどう? 良いでしょこれー?」

「あ、あぁ……そ、そうだな」

「むー、こっち見て言ってよー」

「ち、近いんだよ! もう塗り終わったんだからおりてくれ!」

「わがままだなぁ、蓮司は」


 お前だよ。

 そう言いたかったが早霧にしては素直におり始めてくれたので黙っていた。


「……えいやっ!」

「うおおっ!?」

「へへーん、油断大敵だよ?」

「お、お前なぁっ!?」


 かと思えば、隣に座ると見せかけてタックルをしてくる悪質な幼馴染によって俺はベッドに押し倒された。

 元々座っていたので衝撃はほとんど無い。


「…………」

「…………」


 だが驚きは何倍も何十倍も何百倍もあった。

 悪戯好きな幼馴染を怒ろうと隣を見てみれば、もう何千何万回と見てきた美少女の顔が目の前にある。

 淡い色の瞳で俺を見つめる彼女の唇は、俺が塗ったリップクリームによって、室内にいるのにまるで太陽に照らされているかのように輝いて見えた。


「……や、ヤバいねこれ」


 思わず見惚れてしまっていた所に顔を赤くした早霧が言う。

 自分でやったのに自分でハマってどうする。なんて今の俺に言う余裕は無かった。


「……だ、だったら離れてくれ」


 横から足が伸びて、俺の足に絡まっていく。

 前もそうだったけど、早霧は足を絡めるのが好きらしい。

 足癖が悪い幼馴染だ。


「……離してくれないの、蓮司じゃん」


 気づけば俺の手も早霧の背中に回っていた。

 足癖が悪い幼馴染を持つと手癖が悪くなるらしい。


「……こうしたら、早霧が諦めてキスすると思ってな」

「……それを言うなら、蓮司だって」


 天国みたいな地獄だった。

 ベッドに寝転び足を絡めながら抱き合い、お互いの顔を見つめあいながらもキスが出来ない。

 何か悪い事をしたかと問われればしたのだが、これはあまりにもあんまりだった。


「……今日の晩ご飯、なに?」

「……どうした急に?」

「……気を紛らわせてあげようと思って」

「……カレーだよ。一緒に食材買ったろ」

「……ああ、そうだったね」

「……ああ、そうだよ」


 意味の無い会話。


「…………」

「…………」


 意味深な沈黙。

 エアコンが動く音だけが響いていく。


「……お邪魔します」

「……あ、おいっ!」


 視線を逸らした早霧がモゾモゾと俺の胸元に潜っていく。

 見えなくなった代わりに白くて綺麗な頭髪が視界に広がった。


「……苦しいね」

「……顔、出せばいいだろ」

「……ううん、苦しいの」

「……俺もだよ」


 モゴモゴと胸元に顔を埋めた早霧が喋るたびにくすぐったくなる。


「…………」

「……なあ、早霧」

「…………」

「……早霧、さ」

「…………」

「……ん? 早霧?」

「……すぅ……すぅ……」

「嘘だろ、お前……」


 でもそのくすぐったさ程度じゃ胸の奥につっかえた大きな何かは取り除けない。

 ついでに久しぶりに遊びに出かけて疲れたらしい元病弱っ子の早霧も、俺の胸に顔を埋めたまま寝てしまって取り除けなかった。


「……親友なら、これも普通なのかお前は?」

「……すぅ……すぅ……」


 当然俺の呟きに返事は無い。

 幸せそうな寝息と鼓動が、あきれるよりも先に心地良さを運んできて。


「……ふあぁ」


 思わず大きな欠伸が出た。

 そういえば今日は朝早くに起こされたんだよなと思い出す頃には、俺も気持ちの良い睡魔に飲み込まれていった。

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