第86話 「私にもして?」
「たーだいまぁぁあつかったよぉぉ……」
「帰って最初の感想がそれかっていうか、ここは俺の家だぞ?」
「つまり、私の家でもあると」
「はいはいそうだなそうだな」
「ぶぅー!」
ドラッグストアで買い物を終えた俺たちが次に向かったのは近くのスーパーだ。
そこでまた早霧がカートを押してこれからの食材を購入し、帰りのバスに揺られて来た道を戻りまだ日が高い内に我が家へと戻ってきた。
戻ってきて早々、暑さにやられた幼馴染は玄関で溶けた。もちろん比喩表現だが、だらしなく座り込んで溶けきっていた。
「……だっこ」
「買い物袋で手が塞がってるから無理だ」
「ケチィー」
物理的に無理なんだが?
両手に買い物袋をぶら下げたままお前をだっこするとか絶対に無理なんだが?
「……夕飯の食材がぐちゃぐちゃになってもいいならしてやるぞ?」
「わーい! 美味しいご飯作ってくれる蓮司大好き!」
手のひらクルックルだった。
早霧の気持ちは知っている。なんせ盗み聞きしていたからな。
でも一応喧嘩してる今、ふざけていても大好きと言ってくれるのは嬉しかった。
俺はどこまでも早霧に甘い男である。
「俺は冷蔵庫に食材ぶち込んでくるから、早霧は部屋のエアコンを最強にしてくれ」
「ラジャー!」
「ちゃんと手洗いとうがいしろよー!」
「はーい!」
スタタッと駆け足で早霧が我が家の廊下を駆けていく。その後ろ姿だけでさっき溶けていたのが甘えている演技だって分かった。
遊びに行って完全に機嫌が良くなったのは嬉しいが、これからの勝負はどうなるのかっていう不安もある。
まあ悩んでいてもしょうがないので俺はリビングを抜けてキッチンへ向かい、買ってきた食材を冷蔵庫に入れた。
「んー、こっちかなー? ここも良いなー?」
「……何してるんだ?」
「あ、蓮司。レンジの置き場所考えてたよ!」
キッチンを後にし俺も手洗いとうがいを済ませて自分の部屋に行くと、出迎えたのは効き始めた冷房とレイアウトに悩む早霧の姿だった。
毎日のように見慣れた面白みのカケラもない俺の部屋に、この幼馴染様はぬいぐるみ屋で買った顔面傷だらけオオカミのレンジを配置しては首を傾げ、また配置しては首を傾げを繰り返していた。
「……ソイツ、俺の部屋に置くのか?」
「もー、ソイツじゃなくてレンジだよ蓮司!」
「ややこしい」
微妙な発音の違いで聞き取れるけど、知らない人が聞いたら何言ってるんだって思われること間違いなしだ。
ていうか俺の質問は無視かオイ。
「……まあとりあえずここにしてっと。ささ、蓮司蓮司! 座って座って!」
「え? あ、何だ!?」
とりあえずでレンジは俺の勉強机のど真ん中に置かれた。とりあえずで置いて良い場所じゃない。
それにツッコむ暇すら与えられず、俺は早霧に手を引かれてベッドへと座らせられた。
そして俺の足に跨るように、早霧が膝をついて迫ってきて……!?
「さ、早霧!?」
「動いちゃだーめ」
俺の両肩に手が置かれ、早霧が視界いっぱいに広がる。
部屋の景色は一瞬で幼馴染の笑顔に埋め尽くされた。
「へへへ……じゃーんっ!」
「え、それは……?」
サプライズに成功したように笑って、早霧は小さな棒状の物体を取り出す。それは俺も見覚えがあるものだった。
「今から蓮司には私イチオシのリップクリームの餌食になってもらいます!」
そう、リップクリームである。
早霧がドラッグストアで買った想像以上に高価なリップクリームだった。
「い、いや別に俺は……ていうか、自分でも」
「まーまーまーまーまー! ここはリップクリーム先輩である早霧ちゃんに任せて!」
「リップクリーム先輩って何んむぅ!?」
俺の疑問はリップクリーム先輩によるリップクリーム口封じでかき消されてしまった。
俺の唇をぬるっとした、すべりの良い感触が這うように流れていく。
「あはっ、蓮司可愛いー!」
「…………」
可愛い訳あるか!
そう言いたかったが俺の唇にリップクリームを当てられているので喋る事が出来なかった。
「へへっ。どーう?」
「ど、どうって……」
不思議な感覚だった。
唇全体がリップクリームの油分でぬるぬるする。ぬるぬるなのに不快感がまるでない。それなのにまるで自分の唇じゃないみたいな……口溶けというか口触りだった。
「わあプルプルだぁ」
「あ、あまり見るな……」
「照れてる?」
「て、照れるだろこんなの!」
慣れない状態で自分の唇がどうなってるかも分からないのに凝視されて恥ずかしくない筈がない。
「大丈夫! 可愛いよ!」
「あまり嬉しくないんだが……」
「えー、可愛いのになぁ。じゃあ、はい」
「……ん?」
早霧は使用済みのリップクリームを俺に渡してきた。
「私にもして?」
「…………は?」
ただ一言、そう言って。
「んー」
瞳を閉じて、唇を突き出してきた。
どう見てもそれはキス待ち顔で、罠だって分かってる。
それなのにリップクリームを持つ俺の手は、ヤバいぐらいに震えていたんだ。
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