第79話 「た、ただいま……?」
先に我慢できなくなってキスをした方の負け。
親友でいたい早霧と、そこから先に進みたい俺との間で始まった真剣勝負だ。
それはお互いに負けたくないと闘志を燃やした早朝の出来事。その熱はまだ収まる事を知らず、一人になった俺は静かに。
「何やってんだよ、俺……」
後悔の炎を燃やしていた。
まずは会って早霧に謝るつもりだったのに、喧嘩から始まった再会はエスカレートしていき、気づけば話す事よりも勝つ事を優先するようになっていって。
「何言ってんだ俺はぁ……!」
思い出すだけでも恥ずかしい事を、無我夢中になって連呼していた。
その恥ずかしさがフラッシュバックして、一人になったベッドの上でゴロゴロと悶えている。
いやあれは、あれこそは早霧が悪い。
キスなんて我慢できる筈がないのに、できると言い張った早霧が……。
「はぁ……」
しかしいくら後悔しても言ってしまった事は事実で、始まってしまった事も事実。
それに普段から思っていた事も吐き出せたので心の奥はスッキリしていた。その分、表面が恥ずかしさで濁っているが早霧に言いたい事の一部分は言えたので良しとする。
「腹、減ったな……」
見慣れた天井を眺めながら、静かになった自分の部屋で呟いて手元にあったスマホを見る。
『7:34』と表示されていた。
めっちゃ朝だ。つまり早霧は今日もめっちゃ早い時間に襲来して来た事になる。
今日といいこの前といい、何であんなに早起きなんだアイツは……。
「とりあえず飯、食うか……」
ちなみに早霧は帰った。
急に現れて言いたい事だけ言って急に去っていった幼馴染の事をこれ以上考えても腹は減ったままなので、気だるい身体を起こしながら部屋を出る。
「あ、蓮司アンタやっと起きたわね!」
「かあさん保険証どこだっけー?」
「いつものとこ!」
「あーあったよかあさん、愛してるー」
「私もよアナター! ほら蓮司、ボーっとしてないで顔ぐらい洗ってきなさい!」
「いや、何してんだ……母さんに、父さんまで……?」
廊下を歩いてリビングに行くと、俺の両親がドタバタしていた。
しかもその格好は家でノンビリするような格好ではなく、登山やキャンプに行くようなレジャーファッションで。
「何って……アンタまだ寝ぼけてるの? 土日はお父さんもお母さんも町内会の旅行があるって言ったわよね?」
「……は?」
初耳だった。
寝耳に水とは正にこの事で理解が追いついていない俺に、母さんが眉をひそめる。
「は? じゃないわよ! 昨日も一昨日もその前も晩御飯の時に説明したじゃないの! アンタ、ボーっとしてたけどちゃんと返事してたわよ?」
「…………」
言われて見ればそんな記憶があるようなないような、そんな感じだった。
けどその時はずっと、告白される早霧の事や早霧を泣かせてしまった事について考えていたから……。
「……蓮司、アンタまさか聞いてな」
「き、聞いてた! 寝起きで頭が回ってなかっただけだから! ああ思い出した!」
母さんは怖い。怒ると特に怖い。
だから俺は全力で首を縦に振って、知ってるアピールをする。
「……なら良いけど。本当に朝弱いわよねアンタは……。早霧ちゃんを見習ってほしいものだわ。なんだったら今度、お母さんと一緒に朝のヨガでもする? スッキリするわよ?」
「いや、遠慮しておくよ……」
何が悲しくて高校生になった俺が母さんと朝の公園でヨガをしなければいけないのだろうか。
平日はヨガで休日は登山旅行。
学生の俺よりも夏休みを謳歌している気がした。
「じゃあはい、これ」
「え、何で?」
溜息を吐いた母さんが財布を取り出し、一枚の紙幣を俺に手渡してきた。
諭吉さんである。
バイトをしていない高校生にとって手を伸ばしても中々届かない偉人が、俺の手に収められた。
「何でって、ご飯代。お父さんとお母さん、月曜日まで帰ってこないわよ?」
「いや、それはありがたいけど……多くないか?」
貰えるものはありがたいが、急に諭吉さんを一人渡されても驚くだけである。来月の小遣いを前借りされているのではないかとか、色々と邪推してしまうんだ。
夏休みが始まったばかりだからこそ、無駄遣いはできない。
「だって早霧ちゃんの分も入ってるもの」
「…………は?」
けれどさも当然のように、母さんは言った。
「旅行は八雲さん家も参加するから。アンタは早霧ちゃんと一緒に美味しいものでも食べなさいな」
「ま、待ってくれ母さん! そっちは本当に聞いてないぞ!?」
「あら? 早霧ちゃんに聞いてないの? うーん、まあ別に良いじゃないのアンタ達、一緒のベッドで寝るぐらい仲が良いんだから!」
「…………」
「かあさん、そろそろだよー」
「うん今行くわー!」
反論できない現場を目撃されていた俺は、母さんに何も言えなかった。
母さんを呼ぶ父さんの声に、母さんは黄色い声で返事をする。
年甲斐もなくはしゃぐ母親の追い討ちは俺に精神ダメージを与え、あっという間に二人の準備は完了したのだった。
「じゃあな蓮司、行ってくるぞ。家と早霧ちゃんをよろしくな」
「じゃあね蓮司、行ってくるわ。早霧ちゃんと仲良くね」
「……ああ、行ってらっしゃい」
ウキウキの両親を玄関で見送り、二人は町内会の旅行に旅立っていった。
息子を信用してくれるのは嬉しいが、二人の口から必ず早霧の名前が出るのがとても恥ずかしかった。
「……嘘だろ」
一人になった我が家の玄関で呟く。
どうやらこの世界は俺に厳しいらしい。
落ち着いて今後の早霧との勝負について考えようとしたのに、必然的に早霧と顔を合わせて食事を共にする事が確定してしまったんだ。
「いや、まだ時間はある。とりあえず早霧が来るまでに――」
――ピーンポーン。
俺の声を遮って、インターホンのチャイムが鳴った。
「…………」
嫌な予感しかしなかった。
俺の両親がこんなに早く家を出るのなら、きっとご近所さんの八雲さん家も同じなのだろうとか、思考を巡らせるようで現実逃避だ。
でもお客さんが来たのは事実なので、重たく感じる玄関の扉をゆっくり開けると。
「た、ただいま……?」
めちゃくちゃ気まずそうな、早霧がいた。
ダボダボのTシャツ姿はさっき見たままで、背中には大きなリュックを背負っている。頬を流れる汗はきっと、夏の暑さだけのせいではないだろう。
顔を上げているのに微妙に視線を逸らしているのは、多分早霧も同じようなやり取りをしてここに来たんじゃないかと予想する。
「ああ、おかえり……」
だからとりあえず同情の返事をして、家の中に入れた。
早霧とのキス我慢対決。
それは、開幕から気まずさたっぷりで二人っきりの休日を過ごす事から始まるのだった。
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