第50話 「れんじ……?」

 夏休みを目前に控えた午後の授業という消化試合レベルの苦行を乗り越えてようやく待ちに待った放課後になった。

 草壁、ユズル、長谷川の三人の声援を浴びながら俺は教室を飛び出して早霧の家へと向かって行く。その間もメッセージを送ったが既読はつかず、そのせいでどんどん歩く速度が速まっていった。


 生徒達が駅に向かう大通りから閑静な住宅街、小さな公園の横を抜けていつも別れる丁字路へ。右に曲がれば俺の家に着く所を迷わず左に曲がった。

 最初から目的地は早霧の家である。

 疎らになっていく住宅地。

 急坂の途中にある寺院脇の細い通りは、幼い頃に夕方以降歩くのが怖かった。

 そんな思い出を胸にそこから少し歩くと、目的地である赤い屋根が特徴の立派な二階建て一軒家へと到着するのだった。


「あら、蓮司くん?」


 インターホンを押す前に早霧のお母さんがタイミングよく玄関から出てきた。早霧をそのまま大人にしたような、短い白髪の綺麗な女性である。

 その手にかけられた買い物用の手提げバッグがよく似合っていて、お節介と歳だけを重ねた俺の母さんとは大違いだと思った。

 

「最近よく遊びに来るわね、うふふ」

「あ、どうもお邪魔します……で、良いんですかね? 今日は遊びじゃなくて早霧のお見舞いに」

「良いの良いの、お邪魔なんかじゃないからね。いつでも遊びに来てね、そうしたら早霧も喜ぶから。あ、そうだこの前、早霧がご飯をご馳走になったんでしょ? お礼に今日は家で食べていって? お母さんには私が連絡しておくから、うふふ」

「え? ですが早霧は風邪じゃ……」

「じゃあ私は早速買い物に行ってくるから、玄関は入ったら鍵をかけてくれると助かるわ。ご飯、何が食べたい? お肉? お肉よね男の子だもん、いっぱい食べてね。うふふふふ……」

「あ、ちょっと……」



 このマイペースっぷりは間違いなく早霧の母親である。

 まさかここでも人の話を聞かない女性に会うとは思っていなかった。いやむしろ俺が知る限りで人の話を聞かない女性の始祖かもしれない。

 何故か俺にめちゃくちゃ笑いかけた後、お母さんはママチャリに跨って颯爽と買い物に行ってしまった。

 俺は言いつけを守って玄関から家に入ると内側から鍵をかける。

 これは防犯の為である。


 いや、幼馴染で昔からよくお邪魔していたが、本当に良いのかこれで……?


 そんな事を思いながら金曜日ぶりの早霧家へ訪れたんだ。

 だが今回はリビングではなく階段を上って二階にある早霧の部屋へ向かう。

 『さ☆ぎ☆り』と小学校入学記念に一緒に家で作った木製の手作りネームプレートがかけられた部屋の扉を二回ノックした。

 しかし返事は無い。


「早霧、大丈夫か?」


 扉越しに声をかけるが、やはり返事は無い。

 その後にまたノックを繰り返しても、静寂しか返って来なかった。


「……入るぞ?」


 万が一の事故が起きないように最後の声かけは大きめに言った。

 ガチャッ! と大げさに音をたててドアノブを回し、開けるときは慎重に中の様子を伺いながらだ。

 もし着替え途中とかだったらすぐに引き返す事が出来る用意が必要なのである。

 期待をしている訳ではない、相手は病人なのだから。


「……すぅ……すぅ……」


 しかし、そんな心配はただの杞憂だった。

 薄い寒色が涼しげなカーテンから僅かな陽射しが室内を照らしている。その下にある大量のぬいぐるみに囲まれたベッドで早霧は眠っていた。

 まるでお伽話のお姫様のように。

 その安らかな寝顔を見た瞬間、張っていた気が抜けて安心と言う嬉しさがこみ上げてきた。


「人の気も知らないで、コイツは……ん?」


 すやすやと眠っている幼馴染に思わず溜め息を吐くと、視界の端に気になるものを見つけた。

 ベッド横にある勉強机の上に置かれた写真立て。

 そこに写っている幼い頃の俺と早霧の写真だ。お互い、酷い顔をしている。


「……懐かしいな」


 それを見て自然と呟いた。

 写真を切っ掛けに思い出が蘇ってくる。

 楽しくて、ドキドキして、不安になって、助け合って、安心して、笑いあった。

 我が家はこんなお洒落な写真立てなんて使わずに全部一冊の分厚いアルバムにぶち込む派なので、こうして見るのは久しぶりだった。


「……んんー?」

「早霧?」


 写真を見て懐かしんでいると、早霧が俺の気配に気づいたのか寝返りを打って薄目を開けた。

 ベッドに寝転がりながらその淡い色の瞳がとろんとしたまま俺を見つめて。


「――れんくん?」


 寝ぼけたまま、昔の呼び方で俺を呼んだ。

 目を擦りながらの仕草と声音がとても可愛くて、凄くドキッとした。


「ああ、俺だぞ」

「あー、うん……」


 こっくりこっくりと船を漕いでいる。

 このままでは二度寝してしまいそうだった。


「ほら起きろ。具合、悪くないか? 飲み物いるか? 濡れタオル使うか?」

「んー……?」


 またゴシゴシと目を擦り、ジッと俺を見つめて。


「れんじ……?」


 若干舌足らずで俺の名前を呼んでから、固まって。


「れ、蓮司ーっ!?」


 かと思えば急に驚いた猫のように、ベッドの上で跳びはねて後ずさりをした。

 タオルケットの掛け布団が落ち、露わになったのはいつものダボダボヨレヨレの白Tシャツ姿だ。

 お前風邪なんだからもっと温かい格好しろよと思ったのだが。


「な、なななななななっ、何でいるのっ!?」

「お前のお見舞いに決まってるだろうが」


 大声で叫ぶ姿は、めちゃくちゃ元気そうだった。

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