第2話
「え?」
これで全員だと思っていた食堂に新たに人が入ってきた・・・ようだ。
何も見えないので足音や気配で感じるだけなのだが。
時間が止まったとも思えるような食堂の雰囲気にその入室してきた”彼女”は戸惑いつつも疑問を呈する。
「えっと…あの?どうか…されましたか?」
恐る恐るという感じで若い女性の声が聞こえてくる。
年齢は10代終わりか20代初めくらいだろうか。
自分の頭の中のデータベースからその声の主を検索して特定する。
ごくごく普通の薄い茶色の毛色の本当にごく普通の女性のメイドさんだ。
屋敷で働いている従業員の顔と名前と職種は一通り頭に入っている。
「えっと、音標さんですよね?」
確認するために俺が尋ねる。
「はい、そうですけ…ど?」
その声からはもし漫画などの創作物であったら彼女の頭の上には大きなハテナマークが出ているであろう事が読み取れた。
音標さんのこの反応と先ほどの足音から事に思い当たる。
「もしかして”見えてる”んですか?真っ暗ではなく?」
「え?はい。見えて……ます?けれど?……普段と何も変わりませんが…?」
「この場にいる人みな何も見えなくなって真っ暗の状況なのです。」
「……え?…え?」
音標さんは混乱しているようだが、それはそうだろう。
俺が音標さんの立場でも意味が分からないに違いない。
混乱している音標さんはひとまず脇に置き、こうなるとあることが確定的になる。
「つまり、音標さんを除いて全員の目が見えなくなったという事になる…?」
どうやら彼女にとっては今の状況は真っ暗ではないらしい。
そうだとすれば理由は分からないものの、この場において彼女は例外ということになる。
俺と音標さんのやり取りで我に返った上皇陛下が後を続ける。
「もし本当にそうならかなり厄介な状況だな。まともに社会が機能するかも怪しくなる。しかも、これは何かの予兆かもしれん。予定通りシェルターに移動することにしよう。音標さん。シェルターまで全員を誘導してくれないか?」
「は、はい陛下。承知いたしました。」
混乱から立ち直った音標さんは未だ半信半疑といった感じだが、陛下の言を受け動き出す。
相談の結果、音標さんはまず2人の皇太后殿下の手を引き誘導し、内親王殿下をそれぞれ抱きかかえた乳母2人と合流し、今度は皇太后殿下が乳母に掴まる。
さらにそこへ少々不敬だが、皇太后殿下の侍女2人が皇太后殿下の裾を持ち離れないようにゆっくりと移動する形になった。
シェルターへは食堂の入り口から少し行ったところにある。
俺は邪魔にならないよう慎重に周りを探りつつ端に移動する。
内親王殿下は2人とも寝てしまったようで俺の脇を皇太后殿下が通り過ぎる際に寝息が聞こえてきた。
上皇陛下とのやり取りと真っ暗になったことで睡眠のスイッチが入ったようだ。
皇太后殿下をシェルターへ誘導した音標さんが次の人を誘導するため食堂の入り口まで戻ってくる足音が聞こえる。
「前失礼します。」
そういって音標さんが俺の前を通り過ぎる際に頭の中で彼女の姿を思い出す。
薄茶の毛色と品のある立ち居振る舞いはかなり美しい。
メイドの中でも憧れる人がいるらしい。
確か彼女の
大抵、
彼女の
!
音標さんは目が見えない!
これは肉体的な話だ。
彼女は肉体的には全盲なのだった。
それを補うために彼女は眼鏡型の直視装置というカメラから直接脳に映像を送る装置を付けている。
手術をして人口眼球にする人も居なくはないが、手術は術後のメンテナンスも非常に面倒であり、眼鏡型の直視装置なら初期の調整さえ終われば装着するだけなのでわざわざ手術をするひとは非常に少ないのだ。
視力の弱い人や目の見えない人達も普通に利用しているし我々も普段は直視装置のことを全く意識することはない。
そのため完全に意識の外にあった。
こうなってくると、なぜ音標さんだけがこの状況で”見える”のかがわかってきた。
この屋敷内で直視装置を使用しているのは音標さんだけだ。
「陛下!もしかしたら”見える”ようになるかもしれません!」
「どういうことだ?」
「音標さんは直視装置を利用しています。ですよね?」
丁度皇太后殿下をシェルターに送り届け、食堂に返ってきた音標さんが俺の前を通り過ぎるところだった。
「はい、使用しています…けど…?」
急にテンションの上がった俺の反応に彼女は少し怪訝そうな声でそう答えるが、すぐにとある事に思い当たったようだ。
「私だけ見えてるのは……機械のおかげ……?」
もし直視装置を使用している人だけが”見える”のならまだこの状況を打開できる可能性があるのだ。
そして上皇陛下は今後起きるであろう社会的混乱をできるだけ抑えるために方向を定める。
「とにかく今は”見える”ようになり社会の混乱を抑えなければな。」
「私は各方面にこの可能性を伝えます。」
大沼さんが各方面に連絡をする。
そして俺はあることをする必要が出てきた。
「陛下、私はこの体質の事で以前直視装置を使ったことがあります。」
「ああ、確かに以前伶旺の検査や調査でそいう話があったな。そうか、まだあるのか?」
「はい、寮にまだ保管してあります。取りに行きたいのですがよろしいでしょうか?」
「つまり、音標さんの手を借りて取りに行くという事だな?いいだろう。音標さん悪いが、その秘書の寮まで誘導してやってくれるか?」
「は、はい!」
音標さんが緊張した感じでそう答え、上皇陛下は俺に命じる。
「残りの人たちのシェルターへの移動は手探りでなんとかする。伶旺はいち早く直視装置を取ってこい!」
「それでは陛下、行ってまいります!」
「専用防護服を着ていけ。音標さんにも上級防護服を着用してもらえ。」
そうして俺は音標さんと俺の寮へ行くことになる。
俺は全く何も見えないので音標さんには今度は俺の誘導をしてもらわなければならない。
「私の手を引いてまずは秘書室まで誘導してもらえますか?」
「は、はい。そ、それでは、失礼します。」
そう俺の言葉に答えた音標さんが俺の手を引く。
音標さんのやわらな手と毛の感触が気持ちよい。
手を引かれて気づいたが俺はこの危機的状況に少し緊張していたらしい。
気持ちも少しばかり焦っている事にも気づく。
「えっと、秘書室ですよね?ホール脇でしたっけ?」
「そうです。お願いします。」
屋敷の正面玄関ホール、従業員の控室へ続く通路の脇に秘書室はある。
音標さんに手を引かれながらお互いに無言で歩く。
全く何も見えない俺を気遣ってくれてゆっくりと誘導してくれる。
食堂を離れ、少し歩いたころ音標さんが話しかけてくる。
「私も直視装置が無いときにはこうして手を引いてもらったりしてるんです。白杖も訓練はしたのですけど、普段から直視装置をずっと使っているので私下手なんですよ。」
「白杖にも上手い下手あるんですね。そういえば今はホールの真ん中あたりですか?音の響き方が全然違いますね。」
「当たりです!音の響きって全然違いますよね?」
音標さんと話をするのはほぼ初めてであったのだが、普段の、日常にあるような会話は俺の焦りと不安と緊張を解きほぐしてくれる。
会話をしつつ、俺は別の感覚に翻弄されていた。
視覚情報が遮断されることで音標さんの声の響き、匂い、自分に触れている音標さんの指の温かさと柔らかさをを強烈に感じる。
今ドキドキしているのは焦りや不安のせいではない気がする……。
そして秘書室に到着する。
ここまでくれば大体の感覚で見えなくても分かる。
秘書室の入り口から入ってすぐの部屋は控室。
入り口からすぐ左側にある扉の奥が個人用ロッカー及び予備の防護服のある更衣室だ。
専用防護服は上級防護服を各個人用に調整した防護服で、職種や個性に応じたカスタマイズもされている。
上級防護服は標準防護服や簡易防護服と違い生命維持機能も高く設計されており補給なしでひと月以上の生命維持が可能となっている。
そのために必要なのがカテーテル等を使用した循環システムになる。
汗やその他排泄物等を主に身体と接続したカテーテルから回収し、ろ過して再利用することで長期の生命維持をする。
そのため全裸で装着することになる。
まずは自分のロッカーまで案内してもらい自分の専用防護服を確認。
音標さんには予備の上級防護服のロッカーを教え、着替え方も教える。
専用防護服を使用するような職種の人間は目を閉じていてもあっという間に着替えることができるよう訓練されている。
いざという時に防護服を着るのに時間がかかっては命に係わる。
とにかく、命が大事なのだ。
そうして俺はさっと普段の訓練のように服を脱ぎ全裸になり、さっと専用防護服を装着する。
音標さんはまだ覚悟が決まらないのか呼吸音しか聞こえない。
そこで気づく。
俺は見えていなくても音標さんは見えているのだ。
自分には周りが全く見えず真っ暗であるが故に音標さんの”視線”を全く気にしていなかったが、音標さんには見えていると思い当たった瞬間赤面している自分がいる。
音標さんの覚悟とかそういう事ではないのだ。
目の前で男が全裸で着替えて平気な女性がいるだろうか?
いや、いない。
同僚の
この2つが合わさった不幸な事故とも言えるかもしれない。
言えないかもしれない。
配慮が足りないとかそういう事ではなく自分の認識の甘さを悔やむしかない。
「すみません。後ろを向いているので安心して着替えてください。…それから、えーと…粗末なものをお見せしました。申し訳ありません。」
俺はそういって音標さんとは逆の方向に体を向ける。
たとえ今現在何も見えない状態であっても音標さんの方向を向いている事は自分には恥ずかしかった。
そして音標さんの服を脱ぐ衣擦れの音が聞こえてくると早々に逆を向いたことを少し後悔した。
というのも”逆方向を向く”という行動がスイッチになってしまい、先ほど手を掴まれて誘導された時の感触と衣擦れの音、音標さんの匂いを強烈に意識してしまう。
それに加え、何も見えないことによる”想像力”により実に生々しく感じてしまったのだ。
先ほどの赤面するほどの恥ずかしさと今度は強烈に意識してしまう音標さんの”女性”性から俺の心拍数は急激に上昇していくのを感じる。
このままではイロイロとまずい。
「ひゃう!…ん…!」
音標さんの身体とカテーテルが接続されたのだろう。
慣れないうちはどうしても声が出てしまうものだ。
俺は無意識にその状況を想像してしまう、してしまった。
ピー!
俺の防護服のヘルメット内で俺にだけ聞こえる警告音が鳴る。
上級防護服には興奮状態になったりした場合に自動で鎮静剤を打つ機能がある。
どんな場面でも冷静さを保つための大切な機能だ。
……まさかこんな形で鎮静剤が使用される事になろうとは思わなかったが。
少しショックを受けるも次第に心拍数も落ち着きつつ、こうしてとりあえず俺と音標さんの防護服への着替えは終わった。
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