第4話

 大きな通りに入って、人通りも増えてくる。ふと見ると、右手に果物を販売する露天商が見えた。ウェスタリアの視線がそこに動いたのを見て、レレムは声をかける。


「欲しい?」


 レレムに指摘されて、ウェスタリアはビクッと肩を震わせた。


「あ……でも」

「いいよ、買ってあげる」


 レレムはそう提案する。いつもねだっている親から、ものを買ってもらうよりも、知らない人に買ってもらう方が良い印象が残る。そんなどうでもいい打算も働いた。


「何が食べたい?」


 ウェスタリアはしばらく迷っていたが、やがて


「りんごがいい」


と呟いた。


 今度はちゃんと、コインの種類を間違えないようにしながら、りんごを一つ購入すると、その赤くて丸い物体を、ウェスタリアの両手に置いた。


「どうぞ」

「あ……ありがとうございます」

「この辺で食べる?」

「うん」


 家に持ち帰ってもらってもいいけれど、もしご両親が目撃した場合、気を遣われたと親に思われて、さらに気を遣われるかもしれない。そういうのは逆に面倒くさい。


 ウェスタリアは嬉しそうに抱えながら、近くのベンチに座りこむ。そして艶やかな光沢の浮かぶりんごを、目を細めて眺めた後、小さな口でかじりついた。


 シャリシャリと、りんごを噛み砕く音が聞こえてくる。


 私も昔、あんなふうだったかもしれない——内気なウェスタリアの姿に、昔の姿が重なった気がした。


 それから、ずっと食べている姿を見ているのも変な気がして、視線を青空に移す。薄雲がたなびいて、何の形にもなりきれないまま、緩やかに流れていく。


「あの……」

「ん?」


 いつの間にか、ウェスタリアは半分に減ったりんごを持って、レレムを見ている。そのまなざしは、追い詰めているようなにも、ひたむきなようにも見えた。


「どうしたの?」

「わたし……喋るの苦手で……いつも何言ったらいいのかなってわかんなくなる」


 蚊の鳴くような、小さな声だった。悩み相談されているのだと、気がついた。


 ずっとそれで悩んでいるのだろう。通りすがりの旅人に打ち明けるくらいには。


 いや、通りすがりの旅人だからこそ、打ち明けられたのかもしれない。打ち明けた秘密と共に、町からいなくなるのだから。


「そうなの?」


 レレムの言葉に、ウェスタリアは泣きそうな目をしながら、こくりと頷く。レレムは体を斜めに傾けて、ウェスタリアに向きなおった。


「どういう時にそう感じるの?」

「自分が……知らない、お客さんとか……あの、えっと年上の人とか……その、時に……」


 少し沈黙が続いて、ウェスタリアが言いたいことを言い終わったことを確認してから、レレムはわざと声を明るくした。


「でもさ、それが言えるってすごいことだと思う」

「……?」

「普通、なかなか悩みなんて人に言えないから。それに私も、あんまり得意じゃない」


 それは事実だった。昔はレレムも似たような悩みを持ったことがあったから、ウェスタリアの気持ちが痛いほど理解できた。


 ウェスタリアはレレムを見ようと視線を上げた。その視線に、親しみを込めて微笑む。


「特に小さい頃はね、何を話せばいいのかわからなかったし、自分がどう思っているかって、聞かれても大したこと言えないのに、何を言えばいいんだろうって思ってた」

「……」


 ウェスタリアは声こそ出さなかったものの、食い入るように見つめ、小刻みに頷いていた。彼女なりに大きく共感を示しているのだろう。


 ほめて、意外性を感じさせてから共感する。そして一言アドバイスをしてから励ます。それが難しければ、ひたすら聞き手に徹する。そうすれば、解決できなくても相手はいくらか話した甲斐があったと思ってもらえる。


 そう打算的に考えてしまうことに、レレムは内心、自分に嫌悪していた。だからせめて、目の前の、悩みを打ち明けてくれたウェスタリアには、まっすぐに向き合いたいと思った。


 本音は危険だと、理性が警鐘を鳴らし始める。それでもレレムは話し続けた。


「でも、無理に話さなくてもいいんだって思った」


 その言葉に、わずかにウェスタリアの顔に不満が広がる。話せるようになりたいと思っているのに、話さなくていいというのは解決にならない、と思っているようだった。


 その不満顔をたしなめるように、レレムは続けた。


「相手の話をよく聞くのもね、話すのと同じくらい大切かなって」


 誰かの話を聞いている時、安心感が込み上げてくる。その間は自分のことを話さずに済むから。


 そしてほとんどの人は、自分の話を誰かに聞いてほしい、興味を持ってほしいと思っている。だからそれを聞いていればいい。


「お客さんだったら、どんなものが欲しいのか、何を求めているのかを質問してみるとかね」


 それから相手が言った言葉を繰り返す。それだけでちゃんと聞かれていると、相手は認識する。相槌は速すぎず、ゆっくりめに。打っている間に、相手は次の話をする。当たり障りがない程度にプラスアルファの質問をする。「いつ、どこで、誰が、何を、どのように、どうした」の中で、まだ聞いていない情報を、それとなく訊ねる。


 相手が遠慮して、「あなたはどうですか」と尋ねてきたら、失礼にならない程度に抽象的に答えて、もう一度話題を振る。


 そうしている間に、限られていた時間はタイムリミットを告げ、別れの挨拶ができる。


 大体、話し方に悩むのは、話し方を改善すればもっと自分のことを理解してもらえるかもしれないという期待があるからだ。


 でも……レレムはその期待が、絵空事にすぎなかったこと気づいてしまった。理解してもらえると思い込んだとしても、相手は——人間は、本当の意味で、自分に興味を持つことはない。相手は、相手の関心領域に引っかかった一部分に対して、ほんの少し気持ちを寄せているのであって、自分そのものを受け入れてくれるわけではない。


 それでも時々、自分という全てを誰かに知って欲しいという気持ちが出てくる。だけど、その夢は叶わない。人間は、100%は、お互いを理解できないという現実が待っている。


 だから勝手に話せば理解し合えるなんていう幻想を抱いて、ショックを受けるよりも、レレムは最初から現実を受け入れることを選んだ。受け入れて初めて、効果的な分析と対策を取れるのだから。


 そして、相手に興味を持ちきれないのは、私だって同じこと。


「聞く……」


 そんなことでいいんだろうか、私にできるのだろうか。ウェスタリアの紫の瞳は、そんな不安が揺らめていていた。


「そう。たとえば相槌を入れるとか、相手の言ったことを要約しながら繰り返すとか、ちょっと取り入れるだけで、だいぶ変わったかな」

「……うん」


 果物を食べ終わったウェスタリアの顔色が、少し明るくなったように見えた。


 こんな考え方をしてしまう私がアドバイスなんてしていいのか、と思ったけれど、そういう弱音を相手が求めていないことは知っている。


 今だって完全に解決できたわけじゃない。でも、小さな子供に、多少の希望を守ってあげるのは、大事なことだろう。


「そろそろ歩けそうかな?」


 レレムは頃合いを見計らって、それとなく訊ねる。いずれにせよ、その場限りの関係なのだから、きれいに出会って、きれいに別れたい。


「うん。ごちそうさまでした」


 ウェスタリアはそう呟いて、立ち上がった。

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